事件そのものの基本的な流れはすでに『査問』で明らかになっており、この『汚名』においても、その点は変わらない。
最初の伏線になったのは、1972年5月7日に行なわれた、民青幹部の党員会議である。議題は、民青同盟の年齢制限を28歳から25歳に引き下げること、必要とする幹部も30歳までにすることであり、1ヵ月後に予定されていた民青同盟第12回党大会に向けてこの方針の確認をとることであった。
この年齢問題自体の是非は、当時の状況の具体性に即して考察すべき問題であって、何らかの政治的原則にかかわるものではない。そして実際、この問題をめぐる議論も、その具体的な状況に即して行なわれた。のちに新日和見主義事件に巻き込まれる民青幹部たちは、この年齢引き下げに原則的には同意しながらも、その実施にあたっては慎重を期すこと、機械的・拙速的に実施しないことを求めるという態度をとった。
これだけを取り出せば、問題はとくにないように思える。上から提案された方針は、いつでも常に、実質的な議論なしに無条件に採択されるべきであるという信念を持っているのでもないかぎり、このような異論が出されること自体に問題があるはずがない。むしろそのような自主的な態度は歓迎されるべきもののはずである。しかしながら、党の幹部はそのようには受け取らなかった。彼らは、党指導部の提案が無条件に通らなかったことに衝撃を受け、その背後に陰謀を感じとりはじめた。
会議を主宰した茨木良和は、次々と出る慎重論にいらだちを隠さなかった。『査問』では、「これでは労働組合の会議だ」という茨木の発言が紹介されている。今回の手記の筆者である油井氏も、茨木良和の発言に怒気が含まれていたことを証言している。
この党員会議以降、事態は急速に新日和見主義事件へと発展していく。おそらく、この党員会議の以前から、党幹部は、民青幹部や全学連幹部の中に、自立的な志向、時には上級批判につながるような不満の雰囲気が広がりつつあることを察知していたのだろう。しかし、党幹部は、この党員会議までは、この志向や雰囲気がどこまで組織的なものなのか確信を持てなかった。しかし、この党員会議において、あいついで異論や慎重意見が出され、党指導部の提案した方針が通らずに、結局保留になるという「異常事態」(党内民主主義が実際に機能している政党においては、ごく普通の現象なのだが)に直面して、党幹部は、民青幹部の中に分派的な潮流が存在しているという確信を抱くようになったにちがいない。
事態は急速に動いた。会議から2日後に出された5月9日の常任幹部会声明にはすでに、「干渉者」の存在を云々するとともに、これらの分子による「きわめて陰険で狡猾な暗躍」と闘うよう訴える一文が含まれていた。さらに、5月11日の『赤旗』は大きなスペースを割いて、「トロツキストとの無原則的な野合」をし、「党の内部を撹乱するために労働運動、青年・学生運動などのなかで党への中傷と不信をもちこみつつある」対外盲従分子や反党分子に対する厳しい警告を発していた。
その頃、油井氏は肝臓病で入院中であった。これらの声明や記事に驚きながらも、それが具体的に何を指すのかわからないまま、不安の日々を送っていた。そして、5月15日、ついに代々木の党本部へ出頭するよう呼び出しがきた。