1972年5月16日、油井氏は、病院から1泊の外泊許可を受けて、査問が待っている党本部に向かった。いっしょに同行したのは、党の静岡県委員長だった。
党本部の一室に通された油井氏に党員権停止と査問の開始を告げたのは、宮本忠人と雪野勉であった。どちらも著名な党幹部である。
しかし、直接査問を担当したのは、中央幹部の諏訪茂だった。肝臓病ですでに十分ダメージを受けていた油井氏の身体は、まったく初体験の査問のせいで、いっそう大きなダメージを受けていた。諏訪の査問は苛酷だった。だが、『査問』を読んですでに査問の実態を知っているわれわれは、それはあたかも既知のことの繰り返しのように見える。しかし、当時日和見主義分派と目された人々に対して同じ調子で繰り広げられたであろう査問は、いずれの被査問者にとっても、生涯で最もつらく衝撃的な体験であったろう。
多くの党員にとって、党は、自分たちの実存そのものにかかわる存在である。党なしに自分たちの生活、自分たちの人生はありえない。喜びも悲しみも、党あってこそである。このような、党員たちのある意味で宗教的な帰依が、共産党の力の源泉であり、最も困難な時期においても党を支えてきた力である。それだけに、その党が、自分を反党分子とみなし、憎々しげな目を向け、怒号を浴びせ、あたかも特高警察が思想犯を取り調べるかのごとく取り調べるとき、それは、とても言葉では表現できないような精神的危機をもたらす。大地が崩れ落ちるような感覚とでも言うべき感覚が、すべての被査問者を襲ったにちがいない。
「こんなことをいっているうちはダメだ!」
「君はもっと重大なことを知っているんではないか!」
「喋らなければ査問は打ち切ってもいいんだ!」
「そうなれば、どうなるかわかってんだろう!」
これは、諏訪が油井氏に対して浴びせかけた言葉のごく一部である。「白眼を剥いた諏訪が、ものすごい形相で私をにらみつけた」と油井氏は回想している(75頁)。でっちあげられた反党分派への「階級的」怒りが、査問者を突き動かしていた。