査問は4日続いた。点滴生活を送っていた油井氏の体は急速に消耗していった。他の被査問者と同じく、残された道は、査問者の望むような自白をすることだけだった。こうして、査問者の描いたとおりの自白と自己批判書がつくられていった。油井氏は次のように回想している。
「彼らはよってたかって六中総に反対したことを強要した。私は、査問がふりだしに戻ることを恐れた。また、査問官の心証を悪くすることを恐れた。次第に、この際、査問官のいうとおりに従った方が無難である、と考えるようになっていった。そして、無実の殺人犯[正しくは「容疑者」]が犯行を供述する心理状態をはじめて知った。その場の苦しさからの解放と逃避のため、一時的安楽に妥協することは、ある特殊な条件のもとではいとも容易であった」(142頁)。
同じような叙述は、『査問』にも見られる。おそらくすべての被査問者が同じような心理をたどって自白したものと思われる。これらの被査問者たちも、相手が警察や資本家や反動勢力なら、黙秘を貫くだけの勇気と決意を有していただろう。だが、相手は、自らのすべての信頼と実存をあずけている党自身だった。
「私はいかなる情況のもとでも敵のテロや弾圧に屈服してはならない、ということを党から学んだ。日本共産党の歴史はそのような英雄的先達者によって築かれている。党が誇り、人々から尊敬されるゆえんもここにある。しかし、この理屈は階級敵のとり調べのときに光り輝くものであっても、共産党の査問部屋で通用するものではなかった。味方と命を賭けて闘うことなど、どうしてできよう」(43頁)。
スターリンの拷問部屋で、ボリシェヴィキの歴戦の勇士が次々と、自分がファシストの手先であることを告白していったのと同じ過程が、より平和的かつ小規模な形で繰り返されたのである。
油井氏は4日目にようやく解放された。その後彼を待っていたのは処分だった。被査問者たちが処分を言い渡されたのは、民青本部だった。その詳しい模様は、査問の場面と並んで、この著作のもう一つの圧巻を構成している。
「私は議長団席と一般中央委員席との間を、『刑場』にひかれるような気分でゆっくりと歩き、演台の前に立った。いままで何度も発言に立った同じ演台である。しかし、今回はちがう。それはまるで獄門台だった。数十人の眼がいっせいに私に注がれた。一瞬、カーッと頭に血がのぼった。心臓が鳴り猛っていた。顔が一気に紅潮してくるのがわかった。
私は人前で喋るとき、ほとんどあがることはない。聴衆が大勢いるほど闘志が湧いてくる。だが、今回ばかりはちがっていた。しかし、この場合、いわゆるあがるということとはまったくちがった、はじめて知る内奥からの高ぶりだった。処分場に時間が止まったような空白が流れた。動くものはなかった。同時に激しい屈辱感が襲った。これが人民裁判か」(186頁)。
こうして、油井氏は、青春のすべてを捧げた民青同盟から永遠に追放された。専従であった彼は、他のすべての被処分者と同じく、同時に生活の糧をも失ったのである。