油井氏は、あの時の自分の屈服が何によってもたらされたのかを次のように分析している。
「私が朝鮮人参、『分派』資金づくり、北朝鮮『分派』、反党旗あげ計画という、ありもしない話をなぜ信じたのかということである。情けないことだが、当時の私は諏訪のいうことをそのまま信じこんでしまった。なぜか。私が党の体質にどっぷり浸かっていたからである。それは、共産党がまちがいを犯すはずはないという無謬性の神話にもとづく、ほとんど信仰に近いものからきていた。マインド・コントロールといってもいいかもしれない。
共産党には党中央委員会に従わなければならないという原則がある。忠実な党員ほどこの原則は絶対的なものであり、こうした党員が党を支えている。諏訪のデマを疑わなかったのは、私にこの原則から派生しやすい特有な体質があったからだと思う。その一つに幹部(とくに中央幹部)にたいする絶対的信頼性の問題がある。
自分の所属する党の中央幹部=党中央委員会に信頼をよせることは、一般論としてはいい。ところが、それが体質化してしまうと、中央委員会=中央幹部は『ウソをいわない』→『絶対まちがわない』→『何があっても従う』というように深化していく。幹部の肩書きが立派であるほど、その思いこみは強くなる。そして、次には疑うこと自体が問題だという思考方法に発展する。こうなると、中央幹部のいうこと以外目に入らなくなる」(162~163頁)。
こうした思考方法はなお、多くの党員を支配している。そして、この新日和見主義事件は、この思考方法が全面的に党と民青に貫徹される最大の契機となった。処分された青年党員たちは、基本的に中央に忠実であったとはいえ、多少なりとも自主的に物事を考え、自らの創意と工夫で大衆運動を積極的に切り開く志向が強かった。それゆえ、彼らは、党幹部たちから不信の目で見られたのである。
彼らが一掃されたことによって、もはや民青の上級幹部に、自主的に物事を考えることのできる活動家はほとんどいなくなった。民青は、二度と回復しえない大打撃を受けた。そして、これらの血気盛んな青年党員たちによって支えられていた共産党自身も深刻な打撃を受けた。宮本顕治を筆頭とする当時の党幹部たちは、運動の利益よりも、そして党自身の利益よりも、幹部としての自らの個人的利害を優先させたのである。