この「雑録」は、日本共産党とその周辺をめぐる動きの中で、短くても論評しておくべきものを取り上げて、批判的に検討するコーナーです。
6月25日付『週刊金曜日』に、共産党の不破委員長と社民党の土井党首との対談が掲載されている。これは、昨今の自自公路線による新ガイドライン法の強行をはじめ、盗聴法案、「日の丸・君が代」法制化、憲法調査会設置法案などの悪法が次々と上程され、数を頼みに強行採決されようとしている現実の中で、こうした動きに抗することを目的に企画されたものである。
社共の党首がこういう形でさしの対談をするというのは非常に珍しく、少なくとも私の記憶にはない。この間の危機的な国会情勢を受けて、これまでのハードルを越えて実現した企画であろう。とりあえずは、こういう形で護憲派の提携が前進したことを素直に喜びたい。
しかし、この対談は、共産党の側からすれば、以上の意味にとどまらない意味を持っているように思われる。私はそれを、2重の意味での和解の模索と考えている。「2重の意味での和解」の1つ目の意味は、もちろんのこと、社民党との和解である。「和解」といっても、もちろん、意見の相違や対立点を曖昧にするという意味ではないが、少なくとも、いくつかの連帯できる課題においてすら、共同行動がなかなか成立しない経過があった。新ガイドライン法案をめぐって5月21日に行なわれた反対集会では、久しぶりに社共の党首がそろい踏みで連帯のあいさつを行なった。今回の対談は、そうした共同の歩みをさらに大きく前進させるものである。
しかしながら、「和解」の意味はそれにとどまらない。宮本体制の晩年、宮本議長の疑心暗鬼と偏狭さがますます強まり、これまで味方であった人々や、本来敵に回す必要のない人々や団体までも、次々と敵に回してしまった経緯がある。井上ひさししかり、森村誠一しかり、そして、この対談の舞台となった『週刊金曜日』しかり、である。宮本議長が完全に党内政治から引退し、完全に指導権が不破委員長に掌握された現在、不破委員長は、これらの対立した人々や団体と和解しようとしている。その手始めが、井上ひさし氏であり、その成果が『新日本共産党宣言』である。その次が、今回の『週刊金曜日』での対談であろう。
『週刊金曜日』が6年近く前の1993年に創刊されたとき、共産党は一貫して冷ややかな態度をとり、金曜日編集部からの再三にわたる取材申し入れや紙面登場の誘いを頑なに拒否し、市民派や良心派の人々のひんしゅくを買った。しかし、そうした頑なな態度は、不破指導下でしだいに軟化していった。その最初の現われは、筆坂秀世氏が5月21日号の『週刊金曜日』に登場したことである。そして、その次のより大胆な一歩が今回の不破委員長の登場であるといえる。
これらの和解の模索は、それ自体としてはもちろん歓迎すべきものである。だが、もちろんのこと、これらの「和解」の過程で、柔軟性の名のもとに、多くの右転換が行なわれている事実に目を閉じることはできない。
さて、対談の中では、現在の国会が異常な状態にあることが、実感を込めて語られている。かつて55年体制と呼ばれていた自社対立の構図は、一方ではなれあいや、国対政治とも揶揄されながらも、それでも憲法の問題にかかわるような重大な案件に関しては、社会党は反対の態度を崩さなかったことによって、現在のような、数で何でも通すということはなかった。このことについて、両者が初めて国会選ばれたときの国会状況を回想しながら、こもごも語られている。この点の実感は真実であり、護憲政党としての社会党が果たしていた役割はきわめて大きかった。
しかし、この社会党が細川政権に入り、次に村山政権のもとで安保・自衛隊に関して大転換を遂げたことから、この決定的な歯止めがなくなった。現在の自自公翼賛体制の歴史的背景には、社会党の裏切りがある。自民党の宮沢喜一蔵相自ら、新ガイドライン法のをめぐる国会審議の中で、「社会党の村山富市首相(当時)が日米安保条約は大事と言い、自衛隊は違憲ではないと言ったことが、今日のような有事法制論議のできる大きな転換となった」と認めている。新ガイドラインを推進する側がそう言っているのであるから、間違いのないところであるし、また、あえて宮沢発言を持ちださずとも、このことはすべての人々にとって明白である。この社会党の裏切りはまさに万死に値するものであり、心あるすべての人々はこのことを永遠に忘れないだろう。
そして、不破委員長は、この対談の中で、事実の問題としてこのことに話を向けている。
「土井さんには言いにくいのですが、そういう形になってしまった大きなポイントが、村山富市内閣の『自衛隊合憲』『日米安保堅持』の路線転換だったと思うのです」(11頁)。
この発言は興味深い。というのは、共産党の従来の解釈によれば、社会党の右転落の最大のポイントは80年の社公合意であり、当時宮本委員長は、社会党はすでに革新政党でなく、ルビコン河を渡ってしまったと断言したものだった。われわれはこのような解釈に反対であり、社会党の右転落の真のポイントは、細川内閣に入閣したことであり、そして村山内閣における転換でその最終局面を向かえたと考えている。したがって、この不破発言は、従来の解釈と比較した場合、より歴史の現実に接近したと言えるだろう。
ところで、この不破氏の慎重な批判的コメントに対して、土井党首はどう反応しているだろうか? 私は、口をにごすのではないかと思っていたのだが、さにあらず、土井党首は次のように開き直ってみせた。
「これは大いに間違っていると思います。どこが違っているかと言うと、村山さんが『安保条約を堅持する』と言われたから(防衛・安保問題の議論が)やりやすくなったとおっしゃているけれども、ガイドライン法は日米軍事同盟を強化するという法律です。
94年6月当時、総理としての村山さんの言われたことをきちっと見てもらいたいのです。それを日米軍事同盟強化と言われるのならすり替えですよ。すり替えだし、言ってもいないことまで、それでやりやすくなったと言われたら、これはちょっと話が違いますと言わなければなりません」(11頁)。
何というみっともない開直りだろうか! 安保条約の堅持を認めただけであって、その強化を認めたわけではない、だから今のガイドライン法にわれわれ社会党(社民党)は何の責任も負っていない、というわけだ。具体的な情勢や政治力学を完全に無視した純粋な形式論理! 改良主義で何であれ、まともな野党の党首として、これほど無責任でいい加減な発言があるだろうか?
社会党の最大の不幸は、80年代半ば以降、およそ最大野党の指導者としてふさわしくない無責任な政治家ばかりが党首に就いてきたことである。石橋しかり、土井しかり、田辺しかり、山花しかり、村山しかり、そして再び土井しかり、である。土井党首のこの発言を見るとき、あの巨大であった社会党がどうしてかくも無残に崩壊し、今では共産党以下の議席に落ち込んでいるのかがよくわかる。そして、これほどまでに支持者から見離されてもなお反省一つせず、自分たちの裏切り行為をあくまでも正当化しつづけているかぎり、新たな前進の可能性はないと言うべきだろう。
不破委員長は、このような開直り発言に対し、次のような慎重な反応をしている。
「ガイドライン法は、日米安保を条約以上に非常に攻撃的・侵略的なものにしたものだけに、日本の将来を考えたときに、軍事同盟体制がいいのかどうかということが否応なしに問われます。その大きな展望で見ると、あの時期に当時の社会党が安保の否定から肯定に転換したということは、やがては見直す必要が出てくる問題だとぼくは思っています。ただ、今の土井さんに今すぐそれは求めません」。
面と向かって吊し上げるわけにもいかないだろうから、この程度のやんわりとした反論になるのは、いたしかたのないところだろう。
しかし、よく考えてみると、共産党が2月に出した「日の丸・君が代」の新見解は、ある意味で、非常に小規模な形でだが、村山内閣の時の社会党の裏切りを繰り返したものではないだろうか? 両者の開直りの仕方も似ている。
共産党は、「日の丸・君が代」には反対だが、国旗・国歌の法制化には賛成だと述べた。この路線転換をうまく利用する形で、政府は「日の丸・君が代」の法制化を持ち出してきた。たしかに、共産党が出した新見解は、「日の丸・君が代」を直接肯定するものではない。しかしながら、具体的な情勢と政治力学を考慮するなら、国旗・国歌の法制化を積極的に認める新見解がどのような役割を果たすのかは、現実を見る能力のあるすべての者にとって明らかだった。そして、実際に事態は、われわれをはじめ、あの新見解の危険性を感じとったすべての人々の危惧するとおりに展開した。
共産党が提起したのは「日の丸・君が代」の法制化そのものではないから、という理由で、共産党の政治的責任は免れるだろうか? いや、免れない。社会党の肯定したものが、直接には安保の強化ではないからといって、社会党の政治的責任が免れないのと同じである。
われわれとしては、不破委員長自身の発言を言いなおして、こう言いたい、「大きな展望で見ると、あの時期に共産党が、国旗・国歌の法制化の肯定に転換したということは、やがては見直す必要が出てくる問題だと思います」と。そして、もちろんのこと、われわれは、その見直しを「今すぐ」不破委員長に求めたい。