すでに述べたように、不破委員長は、「第3の角度」として、日本政治の変遷の中での共産党の前進・後退の歴史的流れを総括している。先に述べた一国主義的把握という問題はさておいたとしても、この歴史的流れの総括にはなお重大な問題が見られる。それは、共産党の前進・後退、あるいは総じて、日本社会における進歩の流れと反動の流れというものが、もっぱら共産党の議席数の増減によって測られていることである。
不破委員長は、「この面から四十年をみますと、三つの大きな時期が区切れます」と述べて、次の3つの時期を提示している。すなわち、第1の時期は、60~70年代における第1次躍進の時期であり、第2の時期は、80年代と90年代前半の反動攻勢の時期、そして第3の時期は、90年代後半の新しい躍進の時期である。
以上の時期区分には非常に問題がある。
まず第1に、第1の時期と第2の時期の区分だが、すでに述べたように、世界的に見ても、または日本を見ても、基本的に革命運動ないし左翼の運動の前進基調から停滞ないし後退基調への転換を画した分岐線は、1970年代半ばにある。たとえば、日本での各種の世論調査ではっきり示されているように(この点に関しては、和田進氏の一連の研究を参照のこと)、1975年まで安保・自衛隊に対する拒否意見は一貫して増大しつづけていたが、1975年を境に、拒否意見は減少傾向をたどり始め、逆に肯定意見が増え始めた。また、ストライキ件数や争議日数を見ても、1975年前後を境に、激減している。その他、労働時間の漸次減少傾向も1975年を境に男子労働者の場合は増大基調に点じ、男女の賃金格差も、それまでの格差縮小傾向から格差拡大傾向に転じている。
すなわち、イデオロギーの面、政治の面、経済の面などあらゆる面から見て、1975年前後が画期だったのである。にもかかわらず、なぜ不破委員長は第1の時期と第2の時期との分岐点を1970年代半ばにではなく、1980年に置いたのだろうか? その理由は明らかである。共産党の衆院議席が、1979年に一時的に増大し、過去最高を記録したからである。しかし、この時すでに得票数では1976年の総選挙より少なくなっていたし(投票日に雨が降って投票率が著しく落ちて共産党に有利に働いた)、明らかに選挙においても停滞の様相が見え始めていた。だが、もっぱら日本における歴史の流れというものを共産党の議席の増減だけで見る歴史観からするなら、歴史の分岐点は1980年にあるのである。
しかし、第1の時期と第2の時期との区分における誤りは、せいぜい5年程度である。より深刻な問題は、第2の時期と第3の時期との区分にある。不破委員長は、90年代後半から、新しい躍進の第3の時期が始まったとみなしている。
しかしながら、実際に現場で活動に従事している末端党員や、あるいは一般にさまざまな政治運動・社会運動に従事している活動家の方ならよく知っているように、現場の状況はますます困難になっており、ますます既得権が破壊され、ますます左翼の側は劣勢に追いやられている。国政を見ても、新ガイドライン法や憲法調査会設置法、国旗・国歌法、盗聴法など、以前なら、いくつもの国会会期を必要とし、いくつもの内閣が吹き飛びかねないような巨悪法案が、いともたやすく国会を通過しており、その一方で内閣の支持率は下がるどころか上がっている。
新ガイドライン法に対する下からの反対運動は、安保闘争の時と比べるまでもなく、1990年代初頭の国連協力法案・PKO法案反対闘争と比べてさえ、おそろしく低水準で終わった。国旗・国歌法についても同じことが言える。不破委員長は、この講演において、「日の丸・君が代」の法制化に反対ないし慎重な世論が5割を越えていると述べているが、しかし真に問題なのはそのような反対世論がほとんど「下からの運動」に結びついていないことである。もし80年代に自民党が「日の丸・君が代」の法制化を持ち出してきたとしたら、嵐のような反対運動が全国津々浦々で起こったであろう。中央レベルのみならず、地域でも大学でも職場でも、反対デモ、集会、決議等が無数に行なわれたであろう。80年代はすでに左翼の後退がはっきりしていたが、それでも現在よりはるかに高い水準の運動を組織することができたろう。そしておそらくは、「日の丸・君が代」法案を廃案に追い込んだことだろう。80年代において、革新勢力にはそれだけの力量がまだあったのである。
それに対して、自自公が今回、法制化反対が相対多数である世論調査を知っていても、平然と「日の丸・君が代」法案を強行採決することができたのは、その反対世論が運動として表現されていなかったからである。
組織面を見ても、実態は深刻である。民青同盟の組織水準は1960年の時点にまで下がっている。共産党の高齢化はますます進み、青年党員の比率は史上最低の2~3%に減っている。党員数も増えるどころか漸減状態にある。大学の自治会も多くのところで崩壊するか、維持するのが精一杯の状態になっている。
国会の議席を見ても、革新勢力と呼べるのは、共産党と社民党だけであり、両者を足した革新の総議席は50程度で、衆院議席の10分の9は保守派ないし保守中間派が占めるという前代未聞の事態になっている。
すなわち、あらゆる指標が示しているのは、反動期の終焉でもなければ、新しい躍進期の開始でもなく、新しい水準の反動攻勢期の到来なのである。もちろん、この新しい反動攻勢は国民の多くの部分に不利益を与えるものであるので、それに対する反発や矛盾も広がりつつあるし、その一つの現われとして共産党の得票数と議席の増大にもつながっている。だが、この共産党の議席増は、革新の総議席の減少とともに生じているのである。したがって、より広い視野で見るなら、私たちいるこの時代はまぎれもなく新しい反動期なのである。
にもかかわらず、共産党の議席の増減だけで歴史の流れを判断する不破委員長は、90年代後半に新しい躍進期が訪れたと断言している。これは危険な幻想であり、党員と支持者を欺くものである。
時期区分の問題と並んで問題なのは、そのような時期の交代がなぜ生じたのかの説明が恐ろしく浅薄なことである。まず、第1の時期と第2の時期との交代について、不破委員長は、共産党の躍進に驚いた自民党が反共の大キャンペーンを始めたからだと説明している。もちろん、自民党の反共宣伝が反動期において重要な役割を果たしたことは間違いないが、それだけで社会全体の流れの変化をつくりだすわけではない。より根本的な社会構造・経済構造の変化(日本および世界の)が、そのような反共キャンペーンを受容する土壌をつくりだしたのである。
また、第2の時期から第3の時期への交代に関して、不破委員長は、オール与党勢力が自民党と何ら変わらないことを示して支持を失ったからであると説明している。しかしながら、「オール与党勢力」が自民党と変わらないという「国民意識」と一言で言ったとしても、その「国民意識」には本質的に方向性の異なる2つの傾向があることを区別しないと、情勢を正しく認識することはできない。
第1の傾向は、伝統的革新意識とある程度共通するものであり、これはとりわけ元社会党支持層およびその周辺の左派市民層に見ることができる。この部分は、社会党の裏切りに衝撃を受け、その後、投票行動においては共産党に入れるようになった。
第2の傾向は、第1の傾向といわば対照的なものであり、自民党政治の右からの克服をめざしており、旧野党勢力が十分に自民党型の保護主義的・利益誘導的政治を克服することができなかったという意識にもとづいている。この部分は基本的に都市の中上層であり、より徹底した規制緩和、より大胆な帝国主義政策に親和的であり、投票行動においては自由党や民主党への支持として現われた。
この2つの世論傾向は対立的であり、国民世論と自民党との矛盾という言い方では片づかない影響力を持っている。この2つの世論動向のどちらに順応するかで、まったく異なった政策傾向が生まれる。そして言うまでもなく、自民党は、95年参議院選挙での敗北以来、第2の世論動向により敏感になり、そちらに順応するようになった。それが、自民党と自由党との政策的違いを小さくし、自自連立をもたらしたのである。