新自由主義を推進する「マルクス主義」学者大西広氏の
「新しい市民革命論」を批判する

「新しい市民革命」と反国家の闘い

 大西広氏は最近、『新世紀市民社会論』という共著を出し、その中でこの新しい独特の理論的立場を表明している。ここでは、『経済科学通信』第91号(1999年11月)に掲載された氏の短い論稿を中心に検討しておきたい。
 氏はまず、自分が「市民社会」論者ではないことをことわっている。

「『市民社会』を構築するための『市民革命』の課題とは、……企業(資本)や個人(市民)への国家の介入を排し、企業による自由な個人=労働者支配の社会を打ち立てることであった。つまり、『市民社会』の原語である burgerliche Gesellshaft, bourgeois society とはブルジョワ社会のことであって、決して全人類が平等な無階級社会ないし平等社会ではないという意味で、筆者は『市民社会論』の立場に立たない」。

 しかしながら、大西氏は、現在当面する課題は新しい「市民革命」を遂行することだとみなしている。

「天下り批判や政官財癒着批判は直接には反企業、反資本の闘いではなく、反国家の闘いである。したがって、この意味で新たな『市民革命』が日本社会に求められている。筆者は現在この『市民革命』を明治維新、45年革命に継ぐ『第3の市民革命』と捉え、同名の書物を……準備中である」。

 天下り批判や政官財癒着批判が直接には反企業、反資本の闘いではないというのは、驚くべき認識である。「癒着」とは文字通り、国家の支配層と大企業(およびその幹部)との「癒着」なのだから、それに対する闘いは、当然にも、国家に対する闘いであるだけでなく、同時に反企業・反資本の闘いでもある。もしかしたら、大西氏は、天下り批判や政官財癒着批判が資本主義の転覆そのものを求める運動ではないという意味で、「直接には反企業、反資本の闘いではない」と言ったのだろうか? もしそうなら、天下り批判や政官財癒着批判は、別に国家転覆の闘いではないし、国家そのものを否定する闘いではないので、「反国家の闘い」でもないということになろう。
 したがって、天下り批判や政官財癒着批判が直接には資本主義転覆を求める闘いではないという理由で、それを「反企業・反資本の闘い」ではなく、単に「反国家の闘い」だとすることは、大企業と資本主義を免罪し、天下り批判や政官財癒着批判を恐ろしく不徹底にするものであると言わざるをえない。
 また、政官財の癒着は、程度の差こそあれ、基本的にはすべての発達した資本主義国に見られるものである。日本には日本独自の特徴があるだろうし、しばしばいっそう野放図で、ひどいものであろうが、しかし、こうした癒着自体は何も日本だけの現象ではない。それは、国家独占資本主義というカテゴリーがマルクス主義の世界で頻繁に用いられてきたことに示されているように、資本主義のある一定の段階において普遍的に見られるものである。にもかかわらず、それがあたかも日本だけの問題あるかのように言うのは、どこまでも資本主義そのものを問題にすることなく、日本の改革を問題にしようとする大西氏の基本姿勢から生じている。

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