新自由主義を推進する「マルクス主義」学者大西広氏の
「新しい市民革命論」を批判する

共産党躍進の驚くべき理由づけ

 次に大西氏は、日本における政治的利害関係の凝縮が、ヨーロッパのようなに階級ごとの利害の凝縮(コーポラティズム)としてではなく、各業界が各担当省庁と結びついて行なわれていることを指摘し、その業界内部では労使の分裂がなく、企業社会ゆえに労使一体となって業界利益の追求がなされていることを指摘している。
 だが、ある特定の業界が政治家や関連省庁と結びついて利権を追求することは、基本的にすべての資本主義国に見られることであるし、そのような利権追求においてしばしば労使が一体化することも、普遍的に見られる現象である。たとえば、欧米の自動車産業が労使一体となって日本車バッシングをやり、政府に圧力をかけて日本車輸入規制を実現したことは、記憶に新しい。
 したがって、こうした現象があたかも日本だけの特徴であるかのように言うのは、またしても、資本主義一般を問題の俎上にのせることなく、日本型資本主義のみを批判しようとする大西氏の基本姿勢を示すものである。とはいえ、そうした一般的特徴が日本においてはより顕著かつ露骨な形で見られるというのは、否定しがたい事実である。
 より重大な問題はそれに続く文章である。大西氏は、この癒着構造を克服する課題と企業社会批判とが結びついている事実について、それが単に結びついているだけでなく、なぜ明治維新や45年革命に比すべき「非常に大きな歴史的課題」であるのかについて、共産党の躍進を例に上げながら説明している。

「たとえば、これらの選挙においてゼネコン政治が共産党によって鋭く追及された。あるいは、銀行への公的資金導入批判、消費税の引き下げ、財政再建、効率の悪い地域振興券批判なども鋭く追及されたが、これらのすべての課題が『どこどこへお金をまわせ』といった『大きな政府』志向のものではなく、『どこどこに税金を使うな』という『小さな政府』志向のものであることは極めて興味深い。つまり、政策の基本方向が大転換されており、それが今回の躍進に結び付いている」。
「このような状況の下では、政権党=政府以外のだれかが『小さな政府』の要求を代表しなければならず、もっとも政権に遠い共産党がその役割を果たすことになったものだと理解できる。ここでの課題が『小さな政府』志向であるという意味でも、やはり現代の課題は『市民革命』的=反国家的である」。

 信じられないようなデマゴギーだ。つまり、日本共産党の躍進は、それがすべての政党の中で最も熱心に「小さな政府」路線=新自由主義を唱えたからだというのだ。しかし、このような言い分は、共産党の選挙政策の一部だけを取り出して構成されたまったくの偽りであることは明らかである。
 共産党は、「どこどこへお金をまわせ」という要求をしっかり掲げて各種選挙を闘った。すなわち、何よりも福祉・教育・医療にお金を回せと主張したのである。これのどこが「小さな政府」志向というのか?
 あるいはまた、共産党は「消費税引き下げ」を要求しただけでなく、大企業・金持ち減税にきっぱり反対した。「小さな政府」論の理想とする税制度は間接税中心の税体系であるから、間接税の引き下げを要求し、直接税の引き下げに反対した共産党は、「小さな政府」路線に真っ向から対立したことになる。間接税引き下げの要求だけを取り上げて、共産党の政策的方向性の大転換を主張するのは、許しがたいデマゴギーである。
 共産党はたしかに大銀行への公的資金導入に反対したが、それは「小さな政府」を志向しているからではなく、大銀行には十分自分たちで不良債権を処理する余力があることをふまえたものだった。この事実認識が正しかったかどうかはともかく、銀行への公的資金導入反対の根拠は「小さな政府」がよりすぐれているからだというものでは断じてない。
 また、共産党は、農業保護や中小零細自営業の保護をも選挙で訴えた。あるいは、公的部門の民営化に断固反対し、公務員の削減にも反対した。これらはすべて「小さな政府」路線と真っ向から対立する。そして、こうした諸要求が、「小さな政府」路線によって切り捨てられる諸階層の支持を集めたことが、共産党躍進の一つの重大要因になったことは明らかである。まさに共産党は、大西氏が軽蔑してやまない「弱者救済主義」を掲げたことで躍進したのである。
 大西広氏がこれらの事実を知らないわけがない。にもかかわらず、共産党の選挙政策を恣意的に紹介して、共産党を「小さな政府」志向であるかのように偽るのは、明らかに意図的なものである。

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