全共闘出身の左派評論家で運動家でもある天野恵一氏は、『さざ波通信』第5号所収の書評(油井喜夫『汚名』)に対して、『派兵チェック』第84号掲載の「運動メディアのなかから」の中で、加害者に名誉回復を求めるのはソ連のスターリニスト官僚および天皇制国家に「通底」する論理であるとの批判を行なった。われわれは、その批判に対し、『さざ波通信』の第6号の雑録論文「名誉回復問題をめぐる天野恵一氏の批判に答える」の中で具体的に反論を行なった。その後、天野恵一氏は、『派兵チェック』第85号(10月15日)の「運動メディアのなかから」の中で再反論を試みている。そこで、天野氏のこの再反論に対し、われわれの方からも再反論しておきたいと思う。
なお、あらかじめ誤解のないようにことわっておくが、今回の論争のきっかけは、あくまでも天野氏の側からの一方的な批判にある。われわれとしては、その批判の中に見られる不正確な記述や著しく誤った見解を正しておく必要から、反論を試みているのであり、天野氏の政治的立場に対する何らかの攻撃の意図などまったくない。
われわれは前回の反論において、公正さを期すために、できるだけ天野氏の議論を引用し、誤解の余地のないように入念な配慮をしておいた。しかしながら、今回の天野氏の反論には、そのような配慮はない。われわれ自身の言葉として引用されているのは、「偏見」と「差別意識」という2つの言葉だけである。あたかも、われわれが天野氏の議論に対して何ら具体的な反論を行なわず、ただヒステリックに「偏見だ、差別だ」と叫んでいるかのような印象を、読む者に与えている。これが議論の仕方として公正なものだとはとても思えない。
念のため、その該当部分を以下に引用しておこう。
「『さざ波通信』は、私の人権蹂躙の査問をした党中央は、本当にそうであるなら、被害者に謝罪・賠償し、責任を取るべきだということを前提にした、彼等の党中央による『名誉回復』要求への疑問と批判(『名誉を回復』する権利などが、加害者の彼等にあるわけがない)を、『偏見』と『差別意識』の産物であると決めつけている」。
われわれは、謝罪や賠償や責任をとることの前提が、事実の公正な再調査であり、かつ被害者の名誉回復であると述べておいた。われわれはまた、「名誉回復」という用語に関する天野氏の一面的な理解を具体的に批判し、天野氏の批判が的外れであることを証明しておいた。しかし、これらの具体的な批判に対し、天野氏は何も答えていない。
「名誉回復」要求は、被害者の人権を擁護する上で決定的な意味を持つ。国家賠償訴訟に立ちあがった元「従軍慰安婦」たちが、何よりも求めているのは、お金でもなければ、口先だけの謝罪でもなく、被害者の「名誉回復」である。きちんとした事実調査にもとづいて、あの行為が、商行為でもなければ、自発的行為でもなく、日本国家によって犯された恥ずべき犯罪であったこと、実際に強制が行使され、日本軍が関与した人権蹂躙行為であったことを率直に認め、被害者の「名誉回復」をはかることである。
あるいはまた、冤罪で逮捕され処罰された人々が求めているのも、「名誉回復」である。犯人でも加害者でもなかったことを裁判所がはっきり認め、冤罪被害者の名誉を回復することこそが、謝罪や賠償の前提条件なのである。これは、実際に何らかの人権擁護運動に従事したことがある人なら、当然の常識ではなかろうか。
訴訟に立ちあがった元「従軍慰安婦」たちに対して、加害者たる日本国家に名誉回復を求めるのはナンセンスだなどと批判するような人がはたしているだろうか? なぜわれわれが同じことを求めると、あのように冷笑的に扱われ、天皇制国家と「通底」するなどと揶揄されなければならなかったのだろうか? そこに、共産党員に対する「偏見」や「差別意識」がないなどと断言することができるだろうか?
天野氏は、先の引用文で「『偏見』と『差別意識』の産物であると決めつけている」と述べている。だが、われわれがいつ「決めつけ」たのだろうか? われわれは具体的に、天野氏の文章の中に垣間見える「偏見」と「差別意識」を具体的に指摘しておいた。「決めつけている」などと決めつけずに、具体的に反論するべきだろう。
われわれが何よりも、天野氏の文章に感じた「偏見」と「差別意識」は、次のような一文である。
「『査問』を読んだ時、あんなことをされながら、長い長い時間共産党員でありつづけた川上らのあり方が不気味だった」。
われわれはこの文章について、以下のように批判した。
「このような文章の底流に流れているのは、共産党員というものを事実上同じ人間であるとはみなさない差別意識である。川上氏らが党にとどまったのは、単に党に対する信仰があっただけではなくて、世の中をよくしたいという思い、自分の人生を社会の進歩と変革に結びつけたいという思いが強烈であったからであり、その思いが査問の屈辱にさえ優っていたからである。
川上氏ら関係者がすごした20数年間というものが、苦悩と迷いと自己嫌悪に満ちたものであり、党員として社会進歩に貢献したいという思いと党に対する不信や絶望とが複雑に錯綜していた月日であったことは、その手記を見ても明らかである。このような人間的感情を『不気味』という一言で切って捨てる天野氏の感性とは、いったい何なのか?」。
政治がらみではない一般の事件においても、被害者が、その被害の実態についてすぐには語ることができず、長い間、加害者のもとにとどまることは、しばしばあることである。たとえば、ドメスティック・バイオレンスの被害者たる女性は、何度も暴力を受けながらも夫のもとにとどまろうとするし、何とか夫が暴力を振るわないよう最大限の努力をする。ところが、その事実をとらえて、「あんなことされながら、長い時間、夫婦でありつづけた妻のあり方が不気味だった」などと言い放つ人間とはどういう人間だろうか? そこにははっきりと「女性蔑視」、「性差別意識」があると言っても間違いないのではないか?
日本共産党はもちろん、暴力夫と同じではない。それは一つの巨大な組織であり、多様な側面を持っている。党があの査問に収斂したり還元されたりするわけではない。それだけになおさら、査問を受けた人々が党にとどまり、党員として、社会進歩の事業に貢献しようとしたことは大いに理解しうることである。そこに、人間としての悩みや苦しみ、迷いや弱さがあり、われわれはそれに共感を感じこそすれ、不気味などとは思わない。ところが、天野氏は、それを「不気味」という一言で片づけている。こうした感性はむしろ、相手を「反党分子」として切って捨てるスターリニスト的感性とも「通底」するのではないだろうか。