さて次に、不破中間発言は、現在の「資本主義の枠内での民主的改革」路線が党綱領に合致しているとして、次のように述べている。
「われわれがいま『日本改革論』というかたちで日本の政治・経済の改革についての当面の目標を提起している根底には、私たちの党の綱領が段階的変革論にたっていて、当面の改革の段階を『資本主義の枠内での民主的改革』と位置づけているという基本問題があります。綱領討議のころには、世界でも社会主義革命論がさかんで、日本でもかなり強い流れがありましたが、この綱領的立場は、それを打ち破ってかちとったものでした。これが、われわれがいま民主的改革を具体化できる綱領的な地盤になっているのです」。
しかし、現在の党綱領で言われているのは、人民の民主主義革命であって、「資本主義の枠内での民主的改革」ではない。投稿でも指摘されていたが、不破委員長は新春の対談の中で、「民主的改革」は民主主義革命をわかりやすく言いかえたものだと説明している。すると、「革命」と「改革」とは何の違いもない同じ言葉、後者は前者をわかりやすくしただけだということになる。しかし、「革命」とは、権力の階級間移動を明確に指している言葉である。「資本主義の枠内での民主的改革」を言葉通りにとるなら、それはブルジョア政権下でも可能である。社会民主主義政権ができれば、それは明らかに「資本主義の枠内での民主的改革」の政権である。だが、社会民主主義政権の発足を誰も「民主主義革命」とは呼ばない。もし、わが党綱領における「民主主義革命」というのが、単に「資本主義の枠内での民主的改革」のことでしかないのなら、2段階革命論は明確に放棄されるべきである。
さらに不破委員長は、多数者革命という綱領路線を持ち出して、現在の追随主義路線を正当化している。
「いろいろな問題が出てきたときに、べつにあせる必要はない、実際の状況に応じて問題点を一つひとつ解決しながら、最後に国民多数の意思で問題を抜本的に解決するところにすすんでゆく、こういう弾力的で落ちついた対応もできるし、長い視野をもった解決策も打ち出せるわけです。安保・外交の問題についても、政権の問題についても、情勢のさまざまな展開のなかでいろいろ複雑な局面も生まれ、複雑な対応を求められる場合がありますが、それにたいして、われわれは、最後には国民多数の意思の成熟のもとに最終的に解決するという展望をもって、中間段階での実際的な解決策を弾力的に提起できるのです。ここにもやはり、わが党のいまの活動の綱領的な根拠があります」。
「日の丸・君が代」問題における右往左往のどこが「弾力的で落ちついた対応」なのかと皮肉の一つでも言いたくなるが、いずれにせよ、多数者革命論を口実に「国民多数の意思の成熟」を持ち出すことで、現在の日和見主義路線を正当化しようとしているのは明らかである。「多数者革命」というのはあくまでも、最終的に革命をやる段においては、被抑圧人民・労働者の多数の意志に立脚することを意味するのであって、個々の局面においてつねにその時々の「国民多数派の意思」に追随するという意味でも、その時の「意識」水準に合わせた政策を出すという意味でもない。多数者革命に至る複雑な過程においては、たとえ一時的に孤立しても、革新の大義を守らなければならない局面はいくらでもある。
たとえば、93年の「政治改革騒動」のとき、孤立を恐れて、当時の国民的興奮に合わせた政策をもし共産党が出していたとしたら、現在の共産党の躍進はなかっただろう。あるいはまた、戦前において、「国民多数派」が侵略戦争を聖戦と信じ、絶対主義的天皇制を支持していたからといって、その意識に応じた政策を出すべきだったろうか? 侵略戦争絶対反対や天皇制打倒を言わずに、当時の政治の枠内での「実際的な解決策」を打ち出すべきだったろうか? 断じて否である。
「日の丸・君が代」問題における不破指導部の失策は、国民多数派の意識におもねることで得票を伸ばす、あるいは、政権入りを果たす、という思惑によって生じた。「中間段階での実際的な解決策」を出すことは、もちろん、時と場合に応じて必要である。だが、「実際的な解決策」という意味が、現状の枠組み(資本主義の枠組みだけとは限らない)を前提にしたものであるかぎり、そして、近い将来における政権入りの思惑が存在する限り、不破指導部は、「実際的な解決策」の名のもとに、繰り返し「日の丸・君が代」問題におけるような重大な政治的失態を犯すだろう。