日本共産党5中総の批判的検討

不破中間発言の検討

ギャップの真の意味とその危険性

 さらに重大なのは、「ギャップ」のもう一つの重大な側面が看過されていることと、この「ギャップ」に潜む重大な危険性についてまったく意識されていないことである。
 不破中間発言は、現在の党が直面しているギャップを、選挙での躍進と党組織の停滞との「ギャップ」としか把握していない。このギャップももちろん重大だが、しかし、問題はそれだけではない。ある意味で、それ以上に重大なギャップが存在する。それは、選挙での躍進と草の根の大衆運動における後退とのギャップである。
 党組織の場合は「停滞」ですんだが、大衆運動は「停滞」どころか、この20年間(とりわけ90年代)、あいつぐ重大な後退を経験している。もちろん、未組織労働者や不安定雇用労働者を組織する分野で、以前にはなかった新しい動きが見られるし、また、「就職難に泣き寝入りしない女子学生の会」のような独創的な新しい運動も見られる。しかしながら、全体として、大衆運動分野は既存の陣地がますます後退するという経験を積み重ねてきた。
 この後退はもちろん、党組織の停滞と軌を一にしている。なぜなら、とりわけ後退した大衆運動分野は青年学生分野と労働運動分野であるが、この両分野における党組織が最も大きな困難と後退に直面しているからである。
 70年代における躍進期においては、共産党は単に選挙で倍々ゲームを繰り返すだけでなく、嵐のような大衆運動の前進、とりわけ青年・学生分野での前進を経験し、党に若々しい血が大量に入った。70年代の躍進はまさに、党組織の絶えざる拡大と大衆運動の前進という「二本足」によってしっかりと支えられていた。だからこそ、70年代後半から80年代における大規模な反共攻撃にも耐えぬき、基本的な陣地を維持することができたのである。
 このような「二本足の支え」は、90年代後半の躍進においてはまったく見られない。この点こそがまさに、90年代後半の躍進と70年代の躍進とを分かつ根本的な相違なのである。このことを看過して、90年代の躍進が70年代以上の「厚みと深さ」を持っているなどと主張することは、他人のみならず自らをも欺くことを意味する。
 この二つのギャップ(選挙での躍進と党組織の停滞とのギャップ、および、選挙での躍進と大衆運動の後退とのギャップ)を正しく認識してこそ、そのギャップに潜む真の危険性も明らかとなる。「二本足」に支えられることなく、得票数だけを肥大化させた共産党は、その基本的な政治的方向を、ますます国会におけるあれこれの戦術や、マスコミ受けするあれこれの柔軟性のパフォーマンス、そして、他の野党との連合や駆け引きに向けるようになっている。大衆運動を下から盛り上げることによって「政治を動かす」のではなく、ますます民主党をはじめとする「野党の結束」なるものによって「政治を動かそう」としている。
 ここに、党指導部の日和見主義の現実的根拠がある。指導部は、実力から著しく乖離した得票数の増大を共産党そのものの実力の増大と勘違いしながらも、現実の動きにおいては、縮小した実力に基本的に規定されたマヌーバー戦術をとっている。このマヌーバー戦術は、「日の丸・君が代」問題に見られるような政治的失策を絶えず生み出すだろう。
 だが、危険性はそれにとどまらない。実力と得票数との乖離がいつまでも続くことはありえない。いずれ得票増は頭打ちになるだろう。そのとき、指導部が、いっそうの得票増をめざして政策を(そして場合によっては綱領そのものをも)いっそう大胆に右傾化させることになりかねない。ちょうど、89年の参院選で実力をはるかに越える得票をとった社会党が、その後の得票の停滞と急落に政治的衝撃を受けて、いっきに右旋回したように。この危険性こそ、現在の「ギャップ」に潜む真の危険性である。
 現指導部の露骨な政権志向は、この危険を確実に醸成している。すべての党員はこの危険性に目を閉じたり、否定したりすることなく、公然と警告を与えなければならない。

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