萩原遼元赤旗特派員による共産党批判について

6、党批判における政治的基準の曖昧さ

 以上のように、萩原氏の主張には多くの点で賛同できるし、共感することができる。現役の党員でありながら、しかも、そのことをまったく臆することなく堂々と公言しながら、このような率直な批判を公に行なうことは、たいへん勇気のいる行為であり、共産党に対する氏の真摯な姿勢を十分に感じとることができる。
 しかし、私たちは残念ながら、手放しで評価することはできない。いくつかの重大な疑問ないし異論がある。
 まずもって萩原氏による今回の共産党批判に一貫している否定的特徴は、政治的基準の曖昧さである。共産党に対する批判のほとんどは、基本的に、党内民主主義の問題に絞られており、手続き民主主義の水準に限定されている。だが、何のためにそのような党内民主主義の拡充が必要なのか? 何のために、党の制度改革が必要なのか? 単に一般市民に受け入れられて、選挙で票を伸ばすためか? いやそうではない。党内民主主義は自己目的ではない。それはあくまでも、社会変革のための武器である。党内民主主義の充実と党の制度改革が必要なのは、共産党を「普通の政党」にするためではなく、共産党という変革の武器をいっそう鋭く磨くためである。萩原氏にあっては、この肝心要の点が曖昧になっている。
 たとえば、先に引用した文章の中で、萩原氏は党指導部について「10年やってしかるべき結果が出せなければ交替させ、新しい幹部で人心の一新をはかるべきだ」と述べている。だが「しかるべき結果」とは何だろうか? それはいったい何ではかられるのか? 議席数か? 党員数か? それとも『赤旗』の数か? 社会全体が左傾化している時代には、無能な指導部でも「しかるべき結果」を出すことができるが、反動期においては、最も優れた指導部であっても、あらゆる戦線で後退を余儀なくされるだろう。幹部の交代の基準が、表面的に見える何らかの成果や結果で定められるようになれば、今度は、見せかけの成果を求めた業績主義がはびこるだろう。実際、わが党は、80年代において、政治戦線での後退を組織戦線での形式的な数の増大によって補おうとした(一面的な組織拡大主義)。真の革命的指導部は、目に見える「結果」を追い求めることでけっして得られるものではない。ここでも必要なのは、政治的基準であって、形式的な成果ではない。
 このような政治的基準の曖昧さ、あるいは、そうした基準の欠落は、その他多くの記述にも見ることができ、それが今回の批判の意義を著しく低めている。たとえば萩原氏は、党内民主主義の問題を多面的に指摘しているが、現在の党指導部がとっている政治路線に対する批判は皆無である。それどころか、後で見るように、現在の政治路線をかなり肯定的にさえ見ている。また、今回の批判の中には、その歴史認識において明らかに誤った見解が見られ、それが氏の批判においてきわめて重要な役割を果たしている(これも後述)。
 氏は言わば経験的にスターリニズムの問題にぶつかったのだが、この問題に関するこれまで蓄積されてきたさまざまな研究と批判の到達点を何ら学んでおらず、スターリニズムを直感的ないし経験的に批判するにとどまっている。そのような直感ないし個人的経験による政治的結論は、時に正しい場合もあるが、多くの場合、その時々の社会的雰囲気に直接に左右される。現在は、60~70年代のように社会全体が左翼化している時ではなく、ソ連・東欧の崩壊を経た時代、日本が帝国主義化し世論の右傾化が進みつつある時代である。現存秩序との妥協、社会主義への極端な不信が圧倒的に優勢になっている。こうした時代的雰囲気の中でなされている氏の批判は、無意識のうちに、この雰囲気に流されがちである。もちろん、氏は後述するように、完全に右傾化した人々とは違って、社会主義的理想主義をなお持ちつづけているし、現在、政府自民党が進めている諸政策に対しても批判的である。しかしながら、それでも、その批判の切っ先は鈍く、後で述べるように重大な限界を有している。
 そこで、私たちは以下に、萩原氏の議論に見られる政治的に弱い側面を率直に指摘し、それを批判しておきたいと思う。

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