まず、ブルジョア・マスコミと文春問題である。萩原氏は第2節「いわゆる反党分子について」の中で、文春問題をめぐって行なわれたある党員とのやり取りについて、次のように記述している。
党支部の会議で、ある党員が「あんたは赤旗には書かずに、なぜ文春ばかりに書くのだ!」と気色ばんで詰問してきた。私も思わず、「それはこっちのいいたいことだ。なぜ赤旗が私に書かさないのか、あんたが行ってきいてこい!」とどなり返した。この男の頭には「文春=反共雑誌」という先入観しかないのだ。私はそれに反対であることは、本文の中でも書いたので、くり返さない。(207頁)
では、本文の中で萩原氏はどのように説明しているのだろうか? それを見てみよう。
私はマスコミを拒否しないが、こびるつもりはない。飯のために売文はしないが、自己の主張を広く世に党場合、マスコミの役割は欠かせない。『朝鮮戦争――金日成とマッカーサーの陰謀』を文藝春秋で出したのはそのひとつであった。しかしこの場合も私の主張に文春が賛同し、出版したのであって、その逆ではない。文春=反共という図式でボイコットする立場は私はとらない。いわゆるブルジョア・マスコミに問題があろうとこれを敵視する態度には賛成しかねる。言論には言論で対抗すべきである。(193頁)
萩原氏は、さらに先の文章の後に次のように書いている。
この年配の党員の態度は、党内のかなりの部分の雰囲気を代表している、と私は思う。文春がかつて70年代に「日本共産党の研究」を長期連載したことがあったが、そのことが”反共雑誌”というイメージとして定着している。
私たちはこのような記述の中に、最初の政治的弱点を感じる。萩原氏に食ってかかった年配党員の反応は、単に政治的偏狭さということで片づけてしまってよいものだろうか? 私たちはそうは思わない。そこには、たしかに、党派主義的偏狭さもあるかもしれないが、しかしそれ以上にそこに反映しているのは、左翼としての階級的規範である。文春系メディアは、単にブルジョア・マスコミの一つではない。それは断じて「ワン・オブ・ゼン」ではない。文春系メディアの特徴はその反共主義という点にあるだけではなく、それがサンケイ・グループと並んで戦後一貫して支配層の最右翼の政治的傾向を代弁し、過去の侵略戦争の美化、日本版歴史修正主義、在日朝鮮人を初めとする外国人差別、北朝鮮・中国敵視政策、日教組敵視政策などを担ってきたことにある。最近でも、従軍慰安婦問題において、慰安婦は単なる売春婦、強制連行はなかった、従軍慰安婦救済運動は反日勢力による陰謀、等々といった最も恥知らずなキャンペーンを展開してきた。一般党員が文春に拒否感を示すのは、単に70年代に「日本共産党の研究」という長期連載をしたからだけではない。
ところが、萩原氏は、文春系マスコミの問題点を「反共」という一点に矮小化し、他のマスコミとの重要な違いを無視して、マスコミ敵視はよくないという理屈で、自らの行為を正当化している。だが、従軍慰安婦問題や南京大虐殺問題で示した文春系メディアの恥知らずな行為を十分に知っている者なら、単なるマスコミの一つとして文春を見ることはできないはずである。しかも、萩原氏は、和田春樹東大教授を批判したきわめてセンセーショナル題名を持った論文「東大教授か、デマゴーグか」をよりにもよって『諸君』に発表しているのである。萩原氏は、『諸君』をも単なるブルジョア・マスコミの一つとして理解しているのだろうか?
もし萩原氏が一方で、文春系メディアがやっている歴史修正主義をこっぴどく批判し、糾弾していたとしたら、文春に書くこと、あるいは、そこから本を出すことはまた違った意味を持っていたかもしれない。しかし、はたして萩原氏はそのようなことをしているだろうか? 氏は「売文」はしないと断言しているが、売文をしなくても、文春から本を出すことで、あるいは、文春系メディアに論文を書くことで、文春系メディアがやっている歴史的犯罪について目をつぶる結果になっていないと断言することができるだろうか?
萩原氏は、氏の本『朝鮮戦争』をめぐって和田春樹氏が行なった萩原批判に過剰に反応し、和田氏を「デマゴーグ」呼ばわりしている。むろん、私たちには、和田氏を擁護するいかなる理由もないし、彼が「平和基本法」の提唱者の一人であるという一点だけからしても、私たちには和田春樹氏を別の面から批判する多くの理由がある。だが、それにもかかわらず、萩原氏の反論を読むかぎりでは、この件に関して和田氏を「デマゴーグ」呼ばわりする相当な理由は見当たらない。萩原氏の反論をすべて額面通りに受け取ったとしても、せいぜい言えるのは、和田氏の批判が不正確で的外れであること、あるいはその批判が誇張されたものであるという程度のものであろう。にもかかわらず、萩原氏は、きわめて興奮した口調で「デマゴーグ」という致命的なレッテルを和田氏に対して貼っている。
だが、「デマゴーグ」というのなら、南京大虐殺はなかっただの、従軍慰安婦の強制連行はなかっただのという文字通りデマゴギーを何十万部もの発行部数を持つ雑誌で、戦後、繰り返し繰り返し宣伝してきた文春系メディアはいったいどうなるのか? もし和田氏をデマゴーグ呼ばわりすることができるとするなら、文春系メディアはおそらく、その100万倍以上の重みをもって「デマゴーグ」呼ばわりすることができるはずである。にもかかわらず、萩原氏は、自己の名誉を守るために、日本で最も反動的でデマゴギッシュな雑誌の一つである『諸君』に大部の論文を書きながら、南京大虐殺で殺された十数万の中国人民と強制連行されて集団レイプされた多くの従軍慰安婦たちの名誉については、とくに配慮するに及ばないとみなしたようだ。これはたとえて言えば、5億円の汚職をやっている政治家の後援会ニュースに登場して、500円をねこばばした公務員を「盗人」呼ばわりするようなものである。
萩原氏のような実績と能力をもった人なら、文春系メディア以外にも、発表媒体はあったはずである。たしかに、文春系メディアほどの影響力や発行部数を誇る媒体を確保することは難しいかもしれないが、その点を割り引くなら、他のメディアでも可能だったはずだ。実際、かもがわ出版から今回の本の最初の版を出しているではないか。