萩原氏は、今回の共産党批判の最後の方で、現在の自民党政治に対する批判も行なっている。たとえば、昨年強行採決された新ガイドライン法について、および、安保条約について、次のように批判している。
1999年5月に国会を通過したガイドライン法は、戦後50年以上続いた平和を吹きとばす時限爆弾のような装置となった。海外派兵によって日本から戦争をしかけなくともアメリカが戦争を始めたら日本も自動的に参戦せざるをえないしくみをつくった。現憲法の改正は、国会手続きや国民投票など簡単ではないから別の手で憲法そのものを有名無実化しようとする好智にたけたトリックをはらんでいる。
私は日米安保条約に反対である。日本人としての誇りが許さないからである。首都のどまん中に外国の基地を置くことひとつだけでもこれほどの屈辱はない。沖縄県はほぼ全土が米軍の基地である。新たに沖縄に作らされる米軍基地に期限を設けることすらおずおずとアメリカの顔色をうかがう日本政府の情けない態度に怒りがこみあげてくる。
安保条約とそれによる日米軍事同盟体制によって、日本のもっとも大切な外交と国防がアメリカの手に握られている。こんなことで独立国といえるのか。
この安保条約によって日本の自主性が奪われているのに、これをさらに改悪したのがガイドライン法である。ここには日本の選択の余地や自主的な判断の入りこむ余地はまったくないのだ。アメリカが戦争を始めれば日本もそのまま参戦せざるをえない。当然日本に報復攻撃が加えられる。大量破壊兵器が日本に撃ちこまれる。他国の戦争になぜそこまで忠実にしたがわねばならないのか。
このように、萩原氏は日米安保条約に反対であり、新ガイドライン法にも反対である。だが、その反対の論理は、あくまでも日本の平和が脅かされるということ、「日本人の誇りが許さない」ということでしかない。「日本のもっとも大切な外交と国防がアメリカの手に握られている。こんなことで独立国といえるのか」という主張は、下手すれば、自主憲法制定派の民族主義右翼の主張と見間違えそうである。石原慎太郎が同じセリフを語っても不思議ではない。
萩原氏は、日本共産党の体質や党内体制にあれほど厳しい批判を加えながら、その政治路線に対してはまったく無批判的であり、したがって、共産党の民族主義的限界がそのままストレートに萩原氏の政治的限界にもなっている。新ガイドライン法の主たる危険性は、実際には、日本が戦場になる危険性ではない。たとえば、韓国はすでにベトナム戦争のときに、アメリカの言いなりになって軍隊をベトナムに派遣した。日本は出撃基地になっただけだが、韓国は自国の軍隊をベトナムにまで派遣し、多くのベトナム人を虐殺した。だが、ベトナムは韓国に報復攻撃をしたか? しなかった。できるはずもなかった。昨年、ユーゴスラビアは、アメリカを中心とするNATO軍によって徹底的に破壊され、この攻撃部隊に近隣のヨーロッパ諸国も参加したが、ユーゴスラビアはそれらの国に報復攻撃をしたか? しなかったし、できるはずもなかった。新ガイドライン法をはじめとする現在の帝国主義政策が目的にしているのは、報復攻撃をする能力のない国を帝国主義諸国が一体となって攻撃を加え、封じ込めることである。
したがって新ガイドライン法の真の危険性は、アメリカの侵略行動をより容易にすることである。つまり、日本が戦争に巻き込まれる危険性ではなく、他国を戦争に巻き込む危険性を著しく高めたことである。この肝心要の点について、萩原氏はまったく理解していない。
さらに言えば、新ガイドライン法は、自動参戦法ではない。共産党は、新ガイドライン法案に反対するさいにそのようなプロパガンダを行なったが、それは一面的であった。実際、共産党は、新ガイドライン法成立後、新ガイドライン法を発動しない政府を提唱し始めた。もし本当に自動参戦法なら、発動するかしないかの選択肢など政府にはないことになる。萩原氏は本当に新ガイドライン法の条文を読んだのだろうか? 周辺事態かどうかを判断するのは閣議による決定である。国会は関与できない仕組みになっているので、この点は、新ガイドライン法案をめぐる国会論戦でも重大な争点になったが、「日本の選択の余地や自主的な判断の入りこむ余地はまったくない」というわけではない。ここでも最大の問題なのは、日本政府の帝国主義的姿勢であって、アメリカに決定権が握られているかどうかではない。