萩原氏は、これまでの赤旗特派員としての経験の中で、日本共産党内部にはびこる官僚主義や権威主義に対する批判の目を養い、また、「社会主義」を自称する政権の裏側をつぶさに観察し、そうした政権の反人民的性格を見破ることに成功した。だが彼は、そうした経験にもとづく批判的意識を、共産党の政治路線に対する批判意識に発展させることはなかったし、また、これまでの長い歴史の中で蓄積されてきた反スターリニズムの理論や経験を系統的に学ぶこともなかった。
すでに述べたように、萩原氏は、経験的に得た批判意識から、直感と社会的雰囲気に頼って、一定の結論を引き出した。その結論は、党内における民主主義の拡充を求めている点では積極的な意味を持っているが、それ以外の点では、積極面よりもはるかに消極面の方が多い。彼は、共産党の民族主義と改良主義をそのまま受け継ぎ、それをいっそう露骨にしさえしている。官僚主義、民族主義、改良主義のこの3者間の内的な結びつきを理解することができず、最初の1つと残り2つを機械的に切り離すことができると信じている。
では今後、萩原遼氏はどこへ行くのだろうか? この点に関し、私たちはいかなる幻想も持っていない。80年代以降にスターリニズムの問題に直面した多くの知識人党員は、左に活路を見出すのではなく、ほとんどの場合、右に活路を見出した。「コミンテルンの残滓(!)」を一掃し、共産党をブルジョア的な意味で「普通の政党」にすること、現存秩序と和解し、その秩序の範囲内でささやかな改良を勝ちとることを目標にすること、等々である。そして、現在の不破指導部は、かつての右派党員たちが目指していたものを着実に実現しつつある。宮本顕治に対してはあれほど手厳しかった右派が、不破哲三に対してはやけに寛容なのも、ある意味で当然である。
萩原氏は今のところ、漠然とした社会主義的理想主義を捨てていないように見える。たとえば、氏は、「社会主義に絶望したからではない」(200頁)と述べ、また「人が人に対してオオカミではない社会。そうした社会に少しでも近づくまでに、またどれだけの汗と涙と血が流されなければならないのか」とも言っている(201~202頁)。このような感覚が今後とも生き続けることを私たちは望むが、しかし、そのような感覚だけでは、複雑きわまる現代社会において正しい方向設定を定めることはできない。やがては、漠然たる社会主義的理想主義が擦り切れて単なるリベラリズムとなり、ついには、反共リベラリズムに堕するかもしれない。そのような可能性は、残念ながら、けっしてないとは言えない。
私たちは、古い世代の知識人党員の言動に一喜一憂することなく、自らの設定した基準にもとづいて今後とも批判活動を行なっていくつもりである。