雑録

 この「雑録」は、日本共産党とその周辺をめぐる動きの中で、短くても論評しておくべきものを取り上げて、批判的に検討するコーナーです。

総選挙向けパンフの問題点

 今年の5月5日付『しんぶん赤旗』に総選挙向けパンフが発表された。さまざまな問題点をはらんだパンフレットであると思われるので、簡単に何点かに絞って問題点を指摘しておきたい。

  1、「一歩一歩」主義?

 まず第1に、極端な漸進主義が強調されていることである。この非常に短いパンフレットの中にある同じフレーズが何度も登場している。それが「一歩一歩」ないし「一歩でも二歩でも」「一段一段」という漸進性を強調的に表現するフレーズである。たとえば、こんな具合である。

一歩一歩よりよい社会をめざす
 社会の発展は階段をのぼるように、一段一段、すすむものです
 それ以前にも、一歩一歩、平和の道を歩みます
 それ以前にも一歩一歩
 一歩でも二歩でもよい政府をつくるために野党の共同に力をつくします

 まさに漸進主義の大安売りである。かつての社会民主主義政党ですら、ここまで極端な漸進主義を標榜したことはない。現在では民主党ですら、「大胆な改革」の必要性を訴えているというのに、共産主義を標榜する政党が、一歩でも二歩でもましでさえあればよいという姿勢をとっているのである。これが改良主義への堕落でないとすれば、何が改良主義なのか理解不能である。
 この「一歩一歩」主義は、5月14日付『赤旗日曜版』に登場した不破委員長の話にも貫かれている。不破委員長はその中で次のように述べている。

私たちの「日本改革」論の提案を歓迎する多くの皆さんの声を聞いて、たいへん喜んでいます。この提案は、「国民が主人公」といえる日本に一歩一歩着実に前進してゆこうという思いと、日本社会のゆがみの根がどこにあるのかの分析とが結びついて、生まれたものです。

 社会の改革というのは、自分の足をしっかり踏みしめながら、階段を一歩一歩上がってゆくことと、よく似ています。

 だが、社会の発展というものは、階段をのぼるように一段一段と進んだことはない。社会の発展というのは、嵐のような前進を遂げたかと思えば、長期にわたる停滞を経験し、あるいは、激しい反動の時期を経る、というようにジグザグの歩みを通して進むのである。階段をのぼるように一段一段と進んだことなど、ただの一度もない。かつて共産党自身が「階級闘争の弁証法」「社会発展の弁証法」として、こうした初歩的な事実について認識していた。しかしながら、改良主義の道をひた走っている現在の不破指導部は、このような初歩的な歴史的事実を投げ捨て、一歩一歩進んでいけばよいし、そうすることができるという幻想を振りまいているのである。
 現在の政治的・社会的矛盾は深刻であり、それはただ大胆な変革によってのみ解決可能である。人民は、そのような大胆な改革を望む場合にのみ政権交代を含めた政治の変革を欲するようになる。単に一歩でも二歩でもましな政府のために、どうして共産党をわざわざ政権に就ける必要があるのか? それなら、支配階級の信任を得ているより堅実な政党に政治を任せる方がはるかに安全・確実だろう。
 さらに深刻な問題は、社会の矛盾がますます深まる中で、実際に大胆な変革を望み始めている層がその政治的救いを右翼ポピュリストに求める危険性が増大していることである。政治と社会の行き詰まりを実感し、政治・経済・社会全般にわたる大規模な変革を志向する部分は、左翼の極端な漸進主義(「一歩一歩」主義!)に幻滅して、その顔を右に向けるかもしれない。東京都知事の石原慎太郎に対する「大衆的」人気は、そうした危険な傾向の萌芽であると言えるかもしれない。

  2、アメリカ資本主義の美化

 第2に、このような漸進主義の裏腹のものとして、欧米資本主義、とりわけアメリカ資本主義に対する美化がなされていることである。一般の人々がこのパンフレット全体を通して受ける印象はおそらく、欧米資本主義には何の問題もなく、ただ日本にのみ特有な問題があり、したがって欧米資本主義に一歩でも二歩でも近づけばそれで日本人民は幸せになれるのだ、というものであろう。だが、その素晴らしい欧米資本主義はなぜ、ユーゴスラビアに雨あられと爆弾を投下したのか、なぜその素晴らしい社会にハイダーのようなファシストが台頭し政権入りを果たすのか?
 またこのパンフレットの中では、「欧米では」という表現がしばしば見られる。たとえば、次のごとくである。

社会保障に、公共事業の何倍もの予算を使う欧米諸国に比べて…
欧米ではあたりまえの解雇規正法

 だが、社会民主主義が強く資本への社会的規制が強力なヨーロッパと、最も自由主義的資本主義が強力であったアメリカとを、このような形でいっしょくたにすることはできない。日本支配層の現在の改革は、アメリカ型資本主義を目指している。アメリカには、解雇自由原則が存在しており、雇用者は、どんな理由であっても自由に被雇用者を解雇してよいことになっている。現在アメリカは戦後最大の好況に沸いており、日本は戦後最悪の不況にあえいでいるが、それでも両国の失業率はほぼ同じである。アメリカが現在の「好況」にいたるまでに、あるいは、その最中でさえも、どれほど大規模なリストラを断行したかは、多くの文献が教えてくれている。日本では、大銀行の合併に際して数千人規模のリストラが発表され大問題になっているが、アメリカではその規模は数万単位である。
 今回のパンフでは、対GDPに占める福祉予算の割合が、日本がアメリカより少ないことを示すグラフを提示して、あたかもアメリカが日本よりも福祉が充実している「まともな資本主義」であるかのような幻想を振りまいている。しかし、この予算規模はけっしてアメリカが日本よりも福祉が充実していることを示すものではない。アメリカにはいまだに公的な医療保険すら存在しない。すべて民間で運営されている医療保険がいかにひどい差別と選別を内包しているかは、今では常識の部類に属する。そして、アメリカには4000万人もの人々がまったく医療保険に加入していないのである。これらの人々はほとんどまともな医療さえ受けることさえできない。かろうじて貧困者向けのメディケィドがあるが、その質は貧困である。
 アメリカにおける福祉予算は、実際には、福祉の充実を示しているのではなく、アメリカにおける貧富の差の大きさと人種差別の深刻さを示している。社会の貧困層が多ければ多いほど、生活保護にかかる予算は膨れ上がる。アメリカには、いわゆる貧困ライン(年収1万2000ドル)以下の世帯に属する人々が4000万人近くいる。そしてその多くは有色人種世帯であり、母子家庭である。失業率や乳児死亡率は人種によって極端な差が存在しており、それぞれ黒人は白人の2倍から3倍多い。
 もちろん、日本のさまざまな施策の中には、ヨーロッパの水準から比べれば、あるいはアメリカの水準から比べてさえ、大きく立ち遅れているものは数多く存在する。こうした立ち遅れを克服するための闘いは、もちろん、非常に重要な意味を持っているし、それは社会全体の変革にとって不可欠の構成部分をなしている。だが、それに劣らず重要なのは、日本においても欧米においても同時に席巻している新自由主義と多国籍資本の力を直視することである。ヨーロッパでは、この新自由主義の嵐が80年代にひとおおり吹いた後に、90年代後半になって一時的に社会民主主義勢力が巻き返したが、しかし、根本的な解決策を講じることができないでいる。日本共産党がお手本にしたいと思っているヨーロッパ社会民主主義の歴史的遺産でさえ、しだいに取り崩されつつある。この現実を見すえるならば、目指すべきは「資本主義の枠内での改革」ではなく、民衆の切実な諸要求から出発しつつ、このような諸要求が現在いかに資本主義の枠そのものと衝突しているかを明らかにし、そして、そうした枠をいかにして乗り越えるべきかを模索することである。

  3、どこに行った、軍事費削減と新ガイドライン法と有事立法

 今回のパンフレットを読んで気づくことは、軍事費削減要求と新ガイドライン法と有事立法制定策動についての記述が見当たらないことである。パンフレットは、公共事業予算を削減して福祉に回すことについては雄弁に語っているが、軍事費削減については何も書かれていない。
 パンフレットの中では、経済改革の要求と政治や外交に関わる要求とが完全に切り離されて提起されている。この傾向はこの間の「日本改革論」に一貫した特徴でもあるのだが、このような切り離しは、現実の運動のあり方を反映していない。かつて「軍事費削って福祉に回せ」のスローガンは、共産党および共産党系の大衆団体の主要なスローガンだった。これは、経済的要求と政治的要求を巧みに結合させたスローガンだったが、今ではこのようなスローガンはすっかり影を潜めている。今年のメーデーにおいても、このスローガンは掲げられなかった。
 また、昨年、最重要の政治課題の一つは新ガイドライン法の制定に反対する運動だったが、この重要な問題が何ゆえか、今回のパンフレットでは一言も触れられていない。不破委員長は、新ガイドライン法制定後、共産党が政権に入る条件の一つとして、新ガイドライン法を発動しないことを挙げていた。このような条件の不十分さについてはすでにわれわれは、以前の『さざ波通信』で指摘しているが、今回のパンフレットにはそのような条件すら姿を消している。
 なぜ新ガイドライン法という重大問題が総選挙パンフから抜け落ちたのだろうか? 単なるケアレスミスだろうか? いや、そんなことは考えられない。おそらくは、民主党と連合政権を組むうえで、新ガイドライン法を発動しないという要件が邪魔になったからだろう。とにかく、一歩でも二歩でも「まし」であれば政権に入る、これが現在の不破指導部の「政権論」である。そこにはいかなる政治的基準も、階級的原則もない。
 最近、『毎日新聞』で、再び共産党の政権入りの可能性について論じた記事が出ていたが、その中で志位書記局長は、民主党の羽田孜幹事長との関係について「一緒に戦う中で、人間的な信頼関係もできつつある」とさえ述べている(5月10日付)。元自民党田中派出身で、最右翼政党であった新進党の元党首で、小選挙区制を推進し、日本政治の帝国主義的転換を主導した一人である反動政治家と「人間的信頼関係」を語るとは、驚きを通り越して、あきれるしかない。
 パンフレットの中では、「憲法を守って、政治と社会のゆがみをただします」という項目が2頁にわたって展開されている。しかし、現在、「憲法を守る」上で最も重大な争点になりつつあるのが、政府自民党の有事立法制定策動である。だが、この危険な動きに対する警鐘は、このパンフレットのどこにも見当たらない。これではあまりにも情勢に対する見方が甘いのではないか。

 その他、さまざまな問題があるが、ここでは触れない。このパンフレットはもちろん、一般大衆向けのものであり、できるだけわかりやすく政治の争点を示すことを目的としている。したがって、当然、すべての問題を網羅できるわけではないし、個々の政策についての説明も意を尽くせるわけではない。そうした限界を念頭に置きつつも、なお、改善の余地は十分あるものと私たちは考える。一般の党員たちも、ただ上から与えられたものを配布することに限定するのではなく、大いに改善意見を上にあげるべきだろう。

2000/5/12  (S・T)

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