この「雑録」は、日本共産党とその周辺をめぐる動きの中で、短くても論評しておくべきものを取り上げて、批判的に検討するコーナーです。
6月15日付『朝日新聞』夕刊に、後房雄名古屋大学教授が今回の総選挙に向けた一文を寄稿している。その趣旨は、政権選択を総選挙の争点にした点で自公保を賞賛し、候補者調整もできていない野党を非難するという、まったくとんちんかんなものである。
今回は政権選択選挙の条件がかなり整備されてきている。
その最大の功績は、事前に政権の枠組みを確定し、統一公約を発表し、さらに小選挙区での候補者統一にまで踏み込んでいる自民、公明、保守の3党にある。……こうした政権選択肢の事前の確定は画期的なことである。
現在の与党が何としてでも政権を維持しようとして、悪政の限りを尽くしてきた現在の権力的枠組みを保持し、候補者調整をしようとするのは当然であり、そこには何の理念も志もない。ただあるのは権力にしがみつくという執念であり、野合の論理である。公明党の政権参加を政教分離に反するとあれほど糾弾してきた自民党が公明党とさっさと手を組み、これまで自民党政治を反国民的だと糾弾してきた公明党が自民党と手を組んでいることに、このことははっきりと示されている。ところが、この大学教授にかかれば、こういった野合の論理でさえ、誉める材料になる。
自民党が公明党アレルギーをあえて引き受け、公明党が不人気の森首相を擁護することになるだけに、この決断は評価に値する。
「不人気の森首相を擁護」などという曖昧な言い方には驚かされる。権力維持のためなら、森の「天皇中心の神の国」発言さえ容認し、国民主権の原理さえ踏みにじって恥じないのが今の公明党である。その破廉恥ぶりを非難するのではなく、逆に森首相を擁護したことを誉めるのである。政権選択肢さえ示せば、理念や民主主義などどうでもいいというわけだ。
この人の民主主義の基準はとことん歪んでいる。一方で、森首相を擁護することを褒め上げながら、民主党の鳩山が自民党の一部議員が自分たちに合流することを期待していることに対しては、「それは実現可能性がないだけでなく、自公保の候補者を選んだ有権者の政権選択を踏みにじる暴挙」だと声を荒げている。森の発言も、それを擁護することも「暴挙」ではないが、似たり寄ったりの政策を持っている民主党と一部の自民党とが合流することは「暴挙」なのだそうだ。しかし、自民党候補者に投票するすべての人間が、別に、自公保の政権選択を望んでいるわけではない。自民党は好きだが公明党は嫌いという有権者の方がむしろ多いのである。あたかも、有権者がみな一人残らず、後房雄氏のような「政権選択」という単一の基準で投票に行っているかのごとくの妄言である。
この一文に一貫して貫かれているのは、どんな政策かをいっさい問うことなく、とにかく政権選択の枠組みさえ提示すればそれでよいという発想である。このけっして短くはない論文の中で、自公保政権がやってきた諸政策に対する言及も、各政党が掲げている政策に対する言及もまったく存在しない。ひたすら政権選択権が叫ばれているだけである。かろうじて一番最後に「政権の枠組みと政権政策の明確化を迫っていくべきであろう」とあるだけである。だが、後教授はこの文章の中で、自公保の政策に一度も触れることなく、ただ政権選択を明示していることをもって賞賛をしていた。だが、政策を問うことのない政権選択とは何なのか? 人は、ある政策を実行してもらいたいと思うからこそ、ある政党ないし個人を選び、時にはある政権選択をも欲するのである。政権選択のために政権選択をするのは、利権に骨がらみになっている連中か、あるいは、後教授のようにゲーム感覚で政権選択を考える知的投機士だけだろう。
各政党が掲げている政策を見るなら、政権選択権なるものが空中の楼閣であることがわかる。今後政権をつくる可能性のある主要な大政党はいずれも、消費税増税に賛成であり、新ガイドライン法に賛成であり、有事立法に賛成であり、規制緩和と民営化路線に賛成である。後教授が有権者に対して「見たまえ、ついに諸君の政権選択権が整備されてきたぞ」と麗々しく提示するその政権選択とは、せいぜいのところ殺虫剤入りの団子と農薬入りの団子との選択肢にすぎない。これのどこが選択なのか? これのどこが権利なのか?
後教授の民主主義感覚のねじれは、共産党に対する彼の評価にもうかがえる。
森首相の「国体」発言では、共産党は天皇制、自衛隊、日米安保条約を認めないとされているが、これは事実に反する。今回選択の対象となる次の4年間の野党政権に関しては、共産党はこれらについては現状維持でよいと明言しているからである。
「共産党は」ではなく、あくまでも「共産党の不破指導部は」である。この人にとって、政党というのは、その一部の指導者によって代替されるものらしい。共産党指導部がこの間の転換に関して、ただの一度も党内討論を組織せず、ただの一度も党大会を開いていないことは、後教授なら当然知っているはずである。彼はたしか、以前には党内民主主義について云々していたはずだ。しかしながら、後教授にとって党内民主主義など単なる「方便」にすぎない。現在の指導部が、自分の望む方向に進んでいるのだから、そんな小さなことなどどうでもいいのである。
さらに後教授のとんちんかんな発言は続く。
すでに冷戦が終結し、残った社会主義諸国も市場経済化に踏み切っている現在、もはや体制選択は意味を失っている。イタリア共産党は左翼民主党に転換して首相を出し、フランス共産党は名前を変えないまま政権に加わっている。
「すでに冷戦が終結し、残った社会主義諸国も市場経済化に踏み切っている現在、もはや体制選択は意味を失っている」? 市場経済化と体制選択と何の関係があるのか? 一部の市場経済化が「体制選択」を無意味にするなら、すでに1921年のネップのときに「体制選択」は意味を失っていたはずである。それともこの人の「体制選択」とは、全面的な市場経済かそれとも市場経済的要素のいっさいない統制経済か、というものなのだろうか? もしそうなら、森首相が「国体」の問題として取り上げた「安保条約」「天皇制」「自衛隊」は「体制選択」とは何の関係もないことになろう。まさか市場経済に天皇制はつきものだなどと考えているのではあるまい。さらに「体制選択」が意味を失った例として彼が挙げているのは、彼にとっての「社会主義祖国」であるイタリア共産党の転換と、フランス共産党が政権に加わったことだけである。どうやら彼の世界は日本とイタリアとフランスと旧社会主義国で構成されているらしい。しかも、冷戦終結と結びつけることができるのは、イタリアの例だけであって、フランス共産党は冷戦時代から何度となく政権参加している。
後教授の「政権選択絶対主義」とでも言うべき態度は、1992~93年の政治改革の時期から一貫している。彼はこの時、政権選択につながるという理由だけで、小選挙区制の導入に賛成し、小沢一郎のイデオロギー的応援団を買ってでた。このときの犯罪的役割に対するいかなる反省もなく、今では、自公保のよき理解者として登場しているわけである。当時、共産党は後房雄をこっぴどく批判する論文を『赤旗評論特集版』に掲載したが、今では、事実上、後教授の軍門に半ば下りつつある。これもまた、皮肉に満ちた歴史の残酷で悲劇的な一側面であると言えよう。