総選挙の表面的総括に終始した6中総

5、政策論戦上の問題点(3)
――「競争相手としての野党批判」

 志位報告は次に、政策論戦上の3つ目の問題として、「競争相手としての野党批判」のについて述べている。

 4中総決定、5中総決定では、総選挙を「自自公(自公保)反動体制にたいする厳しい審判」とともに、「どの野党がのびれば政治を変える力になるか」、この「二つの角度」から国民の審判をあおぐ選挙として位置づけてきました。そして「競争相手としての野党批判」はためらわずおこなうことをくりかえし確認してきました。
 適切な野党批判があってこそ、野党一般でなく、わが党の値打ちを光らせ、わが党がのびることの意味を国民に説得力をもって訴えることができます。「競争相手としての野党批判」ということは、わが党にとっても新しい課題であって、それを具体化するためには、いっそうの努力と探究が必要であったし、今後も必要であります。

 3つの反省点はいずれも不十分で曖昧であったが、この3番目の「反省」は最も曖昧である。ここでは、他の野党に対する批判が不十分であったとか、不適切であったという直接的な反省の弁はまったくない。「適切な野党批判があってこそ」とか「いっそうの努力と探求が必要」と言われているだけで、総選挙における野党批判はどの点でどういう風に「適切」でなかったのか、どの点でどういう風に「努力」が足りなかったのか、まったく述べられていない。そして、もちろんのこと、なぜ「競争相手としての野党批判」が不十分であったのかの理由については、なおさら語られない。これではまるで「総括」になっていないではないか。
 だが、そもそも「競争相手としての野党批判」とは何なのか? どうしてこれが、「わが党にとっても新しい課題」なのだろうか? これまで、共産党は、戦後55年間、一貫して野党であったし、その間、ほぼ一貫して、自民党以外の諸政党は野党であった。つまり、共産党としては、「競争相手としての野党批判」をしうる機会は、この55年間、いくらもでもあったことになる。ではなぜ、今回突然、「競争相手としての野党批判」は「わが党にとっての新しい課題」になったのだろうか? 今までは、どういう立場で野党批判をしていたのであろうか? もちろん、このことについては、何も語られない。
 仕方がないので、私たちが代わりに答えを推測するしかない。ここでは主として第一野党に対する態度を検討しよう。社会党が93年に完全な右転落をするまで、社会党に対する共産党の批判はしばしばセクト的なものだった。もちろん、その批判の多くは正当であり、今から見れば、現在の共産党に対する批判としても妥当する議論を展開している。しかしながら、とりわけ社公合意後、共産党は、社会党が完全にルビコン川を渡り、革新政党ではなくなったという時期尚早の死亡宣告を行なった。そのため、それ以降の野党批判は、著しくセクト主義の強いものとなってしまった。しかしながら、1993年に本当に社会党が完全な右転落をとげたのちは、共産党の社会党批判は十分根拠のあるものとなった。とりわけ、その「オール与党」批判は、共産党の革新性と野党の堕落をはっきりと浮き彫りにする強力なスローガンとなった。こうした立場の正しさは、社会党の得票が激減し、その分が共産党に大きく移動したことで証明された。
 この社会党の完全な右転落を主導した勢力が、沈没船から逃げ出すネズミのごとく社会党から大挙して逃げ出し、避難所として見出した先こそ、民主党であった。つまり、民主党こそ、右転落した社会党の最悪の部分が結集した党なのである。それ以外の部分は、基本的に元自民党の議員たちであり、自民党の守旧派的政治姿勢に反発して、新自由主義政策を実現するために飛び出した政治家たちである。さらにその後、新進党の崩壊とともに、より新保守主義的な議員たちが多数民主党に加わった。したがって、民主党とは、社会党の最悪の部分と自民党の中の新自由主義者と旧新進党の新保守主義者との連合なのである。それは、最終的に右転落をとげた社会党よりもはるかに右であり、いかなる意味でも革新政党ではなく、自民党とは別種の、より新自由主義に純化した保守政党である。
 それにもかかわらず、不破指導部は、一昨年あたりから「オール与党批判」をこっそり取り下げ、参院選挙後にはこの民主党との連合政権構想にうつつを抜かし、菅直人に首相指名選挙で最初から投票するという路線をとった。それ以来、「競争相手としての野党批判」なる「新しい課題」が浮上してきたのである。逆さまではないだろうか? かつての社会党に対してこそ「競争相手としての野党批判」が必要だったのであり、現在の民主党や自由党に対しては、「競争相手」としてではなく、「対抗相手」としての厳しい批判が必要なのではないか? 
 したがって、野党批判の不十分さという点でいちばん問われなければならないのは、「新しい課題」ゆえの「努力不足」などではなく、この間の不破指導部の路線そのものである。新自由主義的ブルジョア政党である民主党や、自民党以上に帝国主義的な自由党などを、「野党」という言葉で社民党などといっしょくたにし、そうした政党との「連合政権」の可能性を志向したことこそが、決定的な誤りだったのである。この点を曖昧にしたまま、野党批判の不充分性を指摘しても、それは責任回避にしかならない。

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