以上、志位書記局長は政策論戦上の3つの問題点を指摘した。わずかなりともこのような形で指導の不十分さについて語られることは、すでに述べたようにきわめて異例なことであって、それ自体は一定評価すべき事柄である。しかしながら、選挙前の政策論戦において、決定的な2つの問題がまったく言及されることなく終わっている。その2つの問題とは、総選挙直前に突然打ち出された、「有事の際の自衛隊活用」論と、皇太后への弔意表明を始めとする天皇制への屈服・迎合である。
この2つの問題についてはすでに、『さざ波通信』第13号のメイン論文「右傾化と堕落に限界はないのか」と同号の雑録論文-6で詳しく展開しておいた。そして、この2つの問題における右転換が、総選挙での敗北にもつながったことについては、号外第5号で明らかにしておいた。以上の諸論文で解明したことの正しさは、残念ながら、基本的にその後の情勢においても十分確認されている。とりわけ天皇問題に関しては、国会のみならず、各地方議会においても、共産党の議員団は粛々と弔詞文の決議や弔意表明に賛成しており、天皇制への屈服をさらに強く印象づけるものとなっている。
驚くべきは、このきわめて重要な、ある意味で決定的な政策転換について、そして総選挙の敗北にも寄与したこの重大問題について、あたかも、そんな問題などそもそも存在しないかのごとく、完全に無視されていることである。有事の際に自衛隊を活用するという立場が、いかなる意味でも第12回党大会以来のものではなく、完全に、第12回党大会決定を含め、すべての大会決定に違反するものであることは、すでに指摘したとおりである。この点について、これまでのところ、インターネットの世界を含めて、いかなる反論も出されていない。これほどの重大な路線転換について、6中総は完全に素通りした。信じがたいほど不遜な態度ではないか?
自衛隊問題と天皇問題は、安保問題などと並んで、革新と保守とを分ける決定的な政治的分水嶺である。にもかかわらず、今回の6中総は、この重大問題に一言も触れなかった。6月13日付のあのいいかげんな『赤旗』解説記事で解明ずみだとでも言うのだろうか? 天皇制と皇族を崇め奉る弔詞文に唯々諾々と賛成した恥べき屈服は、あえて言及する必要がない瑣末なことだとでも言うのだろうか? かつて、戦後の政党史上、自らのアイデンティティにかかわる根本問題で大転換を遂げながら、それについて詳しく言及する必要性すら感じなかった政党があっただろうか?
社会党の右転落は十分に深刻で悲惨なものだった。それでも、社会党の執行部は、自らのなしつつある転換が「転換」であり、党のアイデンティティにかかわる重大問題であることを認識していた。社会党員もまたそれが「転換」であることを認識し、賛成であれ反対であれ、その問題を積極的に論じ、激しい論争を闘わせた。それは、たとえ右に転ぶのであっても、政党としての生命力が存在することの証であった。
だが、わが共産党ときたらどうだろう。党指導部は、これまでの大会決定のすべてを蹂躙する大転換を委員長のインタビューという形でやりながら、機関紙の短い記事で、「1973年以来の一貫したもの」であるという見え透いた嘘をついただけで片づけ、総選挙の敗北につながったこの問題について6中総で改めて言及する必要性さえないとみなしたのである。
かくして革新の理念と共産党のアイデンティティは、公然と攻撃されることで蹂躙されたのではなく、どうでもよい瑣末なこととして投げ捨てられることで蹂躙された。この「蹂躙」は、ある意味で、公然たる攻撃以上に深刻で悲惨である。このことに私たちは暗澹たる思いを抱かないわけにはいかない。