選挙総括をめぐる渡辺氏の混迷は、第3の争点、政権の枠組みをめぐる争点を論じている部分にも見られる。渡辺氏はこの問題に関して次のように述べている。
選挙戦で争われたもう一つの争点は、政権の枠組みであるが、この枠組みの問題は、実は、以上のような政策とりわけ新自由主義改革をいかに実行するかをめぐっての対抗関係にからんでいた。選挙戦では、自公保与党連合に対して野党は連合を形成することが出来ず、逆に与党側は、野党分断のために露骨な反共キャンペーンを展開した。すなわち、与党側は、もし野党が政権を握るとなれば、民主党は共産党と組むことになるというキャンペーンをはったのである。これは、与党連合が、政権維持の危機感に駆られた末のなりふり構わぬ反共キャンペーンであるのみならず、実は、支配層の政策遂行にとって死活的な方針にかかわっていたと思われる。
というのは、先述のように新自由主義改革をめぐる争点は、実は新自由主義改革による大企業優先の不況克服か、それとも福祉重視の不況の克服かという点にあった。自民党の公共投資優先路線は結局、遅かれ早かれ大規模な新自由主義改革を不可欠とする点で前者の路線に含まれるものであった。しかし、支配層としては、選挙戦がこうした真の対決点に沿って闘われてはまずい。ところで、支配層にとって幸いなことに、こうした対決点が作られるには、一つの重要な条件が必要であった。それは、与党連合よりも一層急進的な新自由主義即時断行派の民主党が政権連合の過程で、与党連合を倒すために共産党の主張を入れて自己の立場を転換することである。
支配層は、この点で民主党という政党を完全には信用していなかった。というのは、民主党が成立時以来必ずしも一枚岩の党でなく、その一部に『連合』を背景にした、旧社会党系を抱えているという不安であった。この『連合』系の議員は、下手をすると現在の不況・リストラの中で、共産党的な福祉優先路線に妥協しかねない。共産党との連合さえなければ、与党対野党の対決は、公共事業か、財政再建優先の新自由主義改革断行か、であって、どちらに転んでもさほど困らない。むしろこうした民主党の突き上げがあったほうが、与党政権内の新自由主義に懐疑的な公明グループを押さえるにもちょうどいいと考えられた。その意味で民主党の共産党との切り離しは戦略的な環であったといえよう。謀略的手段まで動員した共産党攻撃はこうして起こったのである。
これを読むと、あたかも、共産党の連合路線こそが民主党の立場を根本的に転換させる可能性をもった優れたものであり、それゆえ、自民党にとって真の脅威であったかのようである。だが実態はどうだったのか? 共産党の連合戦術は民主党の路線転換を引き起こしたのか、それとも共産党自身の路線転換を引き起こしたのか?
この問いについては今さら詳しく答えるまでもない。民主党が拒否しているもとでの共産党の一方的なラブコールは、民主党の政策を転換させる可能性など最初から持っていなかったし、そもそもそういう性質の戦術ではなかった。共産党は最初から自らの根幹にかかわる安保政策を棚上げし、安保の現状維持をうたった。それだけでなく、自衛隊による祖国防衛を「当然」と言い切った。一方的に自分たちの政策の譲歩を公言しての連合追求路線は、ただ共産党自身の路線転換をもたらしただけだった。
もちろん、支配層は常に最悪の事態を想定して対処するし、支配層が民主党を政治的に信頼していなかったこともそのとおりだろう。しかし、だからといって、共産党との連合によって民主党がその基本路線を転換し、新自由主義反対の党になる可能性など、かけらでもあっただろうか? もちろん、そのような可能性はまったくなかった。そもそも、共産党が連合の可能性を言っただけで、新自由主義を根幹としているブルジョア政党の立場が転換するようなことがありうるだろうか?
ヨーロッパの社会民主主義政党の福祉政策を可能にしたのは、19世紀以来の社会主義運動の伝統、強力な産別労組の基盤、社会の奥底に根強く存在する相互扶助的伝統、等々であり、こうした決定的な条件がこの日本には存在せず(あるいはきわめて脆弱で)、したがって、ヨーロッパ型社会民主主義政党は日本では成立しなかったし、成立しえなかった。この点について、渡辺氏自身がこれまで繰り返し説得的に語ってきたところである。そして、現在の日本は、ただでさえ脆弱であった労働運動的基盤がさらに掘りくずされている。社会主義的な価値観はますます後退し、市場主義的なアメリカニズムがますます席巻しつつある。このような状況のもとで、保護主義的な自民党に代わる「自立した市民の党」をアイデンティティとして成立したブルジョア政党が、強力な下からの運動によってでもなければ、階級闘争によってでも、社会主義的世論の高揚によってでもなく、ただ、自党よりはるかに議席の少ない一政党との連合の可能性だけで、自らの基本的立場を転換するなどということが、どうしてありうるのか? このような想定は、マルクス主義のいろはを否定するだけでなく、これまでの渡辺氏の議論をも否定するものである。
極端に視野が狭く、目先の権力を維持することに汲々とし、常に最悪の事態を想定して行動する支配層は、腐った思惑にもとづいて卑劣な反共キャンペーンを展開した。だからといって、このことを現実そのものの客観的可能性と混同してはならない。