政治的配慮と後退の産物
 ――2000年総選挙総括をめぐる渡辺治論文への批判

5、どこまで本音が語られた議論か?

 以上見てきたように、今回の渡辺氏の選挙総括は、これまでの氏の政治・社会分析に見られたような冴えは見られない。いったいなぜこんなことになってしまったのか?
 考えられる最大の理由は、渡辺氏があくまでも、共産党に対する公然たる批判を避けようとしたために、自分が実際に考えていることを語ることができず、結果としてあのような表面的で隔靴掻痒な議論に終始せざるをえなくなったことである。とくに、発表媒体が『月刊全労連』であったことは、こうした傾向をいっそう強くしたと思われる。
 しかし、たとえそうだったとしても、現在の危機的な状況はそのような政治的配慮をはるかに凌駕している。この期に及んで、なおもこうした政治的配慮を優先させることは、政治的に見て重大な誤りである。それは慎重さを通り越してすでに政治的臆病さの域に達しているだけでなく、現在の深刻な状況をいっそう悪化させ、共産党が社会党の二の舞になる事態を促進するだけであろう。このような誤った愛党心は、実際には党そのものを危機に追いやっているのである。
 しかし、今回の総選挙総括を読むかぎり、単純に、共産党に対する政治的配慮を優先させただけとは言えない側面もある。たとえば、渡辺氏は、この論文の最終章で次のように述べている。

 もし総選挙において、新自由主義の是非が正面から問われ、民主党と共産党が前進して民主党に対する圧力が増大していれば、事態の打開の可能性はより大きかったろうが、結果はそうはならなかった。

 これは単なる政治的配慮の文章とは思えない。氏が本当にそう思って書いているように思われる。共産党が民主党への迎合路線をとっているもとで、今回の総選挙で民主党と共産党がともに前進していたとすれば、民主党に対する圧力が増大するのではなく、共産党への右傾化の圧力が増大することになっただろう。それは事態の民衆的打開の可能性を切り開くのではなく、それをよりいっそう閉じることになっただろう。共産党指導部は、これまでの自分たちの右傾化路線が信任されたと確信し、いっそうその「現実主義化」を押し進め、もっと取り返しのつかない段階にまで突き進んでいただろう。
 さらに、渡辺氏は次のようにも書いている。

 以上の状況下で、二つの「改革」を阻止し政治を変革するには何が必要か?
 それには、全労連などに結集する階級的労働運動の力が不可欠であることを強調したい。全労連がこの間追求してきた『連合』との共闘を含め、企業リストラと行政改革、地方行財政改革などの新自由主義改革反対の大衆運動を、その持ち場で起こすことである。民主党自身は、事態を新自由主義的改革で乗り切ろうと考えているが、民主党を支持した大衆はそうではない。中小零細企業のリストラや産業の空洞化を規制する立法を制定し、また「行政改革」の名の下での福祉や国民経済保護的官庁の切り捨てを阻止し、地方財政構造改革を名とする大々的なリストラに反対する運動を起こすことは、今後の日本の政治的対抗を変えるためにも大きな意義がある。
 『連合』と組んで、こうした運動を起こすことによって、民主党にプレッシャーをかけ、民主党に対する『連合』の影響力を回復させることが必要である。

 まずもって、民主党を支持した層が、新自由主義によって切り捨てられる層であるという理解は誤っている。たしかに一部には、そういうこともあるだろうが、民主党を押し上げた主要な基盤としてこうした層を想定するのは、まったくナンセンスである。
 だが、それ以上に問題なのは、氏が、「連合」と組んで民主党にプレッシャーをかけることで事態の民衆的打開が可能になると考えていることである。社会党を右傾化させ、最終的に崩壊に追いやった元凶こそ、「連合」を中心とする組合官僚と大企業ホワイトカラー層であった。このことを渡辺氏自身が、これまでの一連の著作や論文で語っていた。それにもかかわらず、今回、その「連合」と組んで民主党にプレッシャーをかけ、民主党における「連合」の影響力を回復させることが、あたかもオルタナティヴになりうるかのように主張されるのには、驚かざるをえない。
 そもそも、大企業労組に結集しうる部分は、今後のリストラや産業空洞化、多国籍化のもとで、ますます縮小せざるをえない。それだけでなく、大企業労組に残った部分も、この間導入されつつある能力主義、業績主義、競争主義の中で勝ち残った層として、ますますその特権意識、エリート意識を助長させるだろう。この大企業労組から脱落するリストラ組や競争に敗れた部分は、たしかに、新自由主義に反対する草の根運動に結集する可能性はあるが、そうした部分は、大企業労組ではなく、別の労組(一般労組や地域労組、あるいは戦闘的少数派労組)に結集するだろう。いずれにせよ、こうした部分は、大企業の周辺ないし下層であり、「連合」を通じて民主党にプレッシャーをかけうるような中核部分ではない。
 現在、全労連が進めている「連合」との共同路線は、共産党が追求している民主党との連合路線の労働組合版であり、それは、共産党の連合路線と同じく、「連合」を革新の側に引っ張るのではなく、こちらが向こうに引っ張られる結果をもたらすのが関の山であろう。そして、その最新の劇的な現われが、国鉄問題における「4党合意案」を全労連中央が一時的であれ承認するという裏切り行為である。この裏切り行為について、渡辺氏はいったいどのように説明するのだろうか? 
 もちろん、共通した課題において、「連合」とも共同闘争を組むのは当然であり、それは労働組合間の民主的な関係として常識の部類に属する。それは、国政の分野において共通の課題で民主党と共闘を組んでもかまわないのと同じである。しかし、一時的でエピソード的な共同や共闘を根本的で戦略的な路線と混同してはならない。
 また、渡辺氏はこの論文において、「連合」を通じた民主党へのプレッシャーについて述べたり、また「企業のリストラの中で攻撃を集中されている女性労働者の運動との連携を深めることも社民党との連携を強める上でも必要であろう」ということで、社民党との連携についても述べている。しかし、無党派の労働運動や全労協、新社会党との連携については何も述べられていない。国会に議席を持っている既存の政党や、それと関係のある運動との連携しか言われていない。これこそまさに、広大な無党派層との共同を打ち出した第21回党大会の決定を踏みにじって、既存の議会内政党とのあれこれの組み合わせによって政権交代をめざすようになった不破路線の延長ではないのか?
 以上見たように、この渡辺論文は、一方では、党中央に対する政治的配慮(あるいは政治的臆病さ)と、他方では、不破路線にかなりの程度とり込まれてしまっているという、現在の渡辺氏の政治的後退の両方を表現している。渡辺氏は、共産党系の知識人の中では最良の部類に属するが、その渡辺氏が、今ではこのような水準にまで後退していることは、はなはだ残念なことである。この事実もまた、現代が、戦後第3の革新高揚期などでは断じてなく、大規模な政治的後退、臆病さ、動揺、脱落、変節、等々をともなう新しい反動期であることを示している。

2000/9/10  (S・T)

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