油井氏は、最初の章において、前著『汚名』に対して寄せられた感想や意見を紹介している。それによると、もっとも多かったのは「党中央はなぜあのようなひどい査問をやったのか」だったと言う。また、「少数だが」と断りを入れながら次の二つの意見を紹介している。
「著者が、新日和見主義事件で理不尽な査問をうけたことはわかる。しかし公開すれば敵の『反共攻撃』に利用されるので出版すべきではなかった。『敵』をよろこばせるだけである」(14ページ)
「『汚名』をみて査問はまちがっていると思った。しかし確認のために党の批判文献を読みなおしたところ、やはり新日和見主義者たちはまちがったことをいっていた」(15ページ)
これらの意見は実に日本共産党的である。寄せられた意見としては少数だったかもしれないが、『汚名』を手に取ることすら拒絶する多数の党員の意見を代弁するものだと言ってもよい。これらの意見が潜在的に代表している党員たちの胸の内にあるものは、おそらく、党は大筋では間違えないし間違ったことをしないという確信であり、現代の日本社会において被支配者の貴重な寄りどころとなっている日本共産党を厳しい批判にさらしたくないという心情であろう。油井氏は、前者の考え方は一般社会では通じないとし、しかも当事者にとって内部的解決の道が閉ざされていることを指摘している。また後者の意見がよせられて本書の出版の必要性をいっそう痛感したと言う。
このような意見のためにも新日和見主義批判がいかなる意図、手法、脈絡のもとで構築されたか解明したいと思った。この人は、党の論文中に被批判者の氏名や論文名、本のタイトルがないことになんの疑問ももっていない。そして党の論文などを鵜呑みにし、それを頭から信じている。また、とりあげられた被批判者の文言がいかなる文脈のなかで述べられたものであるか、知ろうともしないし、調べようともしない。この意見の持ち主は、党幹部の論文であればなんでも信じてしまう体質に浸かっている。またそうなっている体質に気がついていない。この現象は民主集中制のもとで発生しやすい党体質の内在的実態の一つである。
それでは、油井氏がこれらの意見にどう答えるのだろうか。