まずは、「党中央はなぜあのようなひどい査問をやったのか」についてである。本書では「事件」の全容解明として、序章につづく第1章から第3章までが当てられている。
事件発生直後、党中央は「新日和見主義」の背後に「国際共産主義運動の干渉主義」があるとみていた。査問が開始された翌日(72年5月9日)の幹部会声明は、それを「国際共産主義運動の一部の干渉者」と特定した。その干渉者とは朝鮮労働党のことであると油井氏は査問官から聞いており、それは川上徹・高野孟両氏の証言とも一致している。当時、日本共産党と朝鮮労働党との間に緊張関係があったことから、疑いを抱いたものと考えられる。ところが、6月12日の幹部会以降は、国際的干渉者の文言が消える。査問の結果、見当はずれであったことが判明したということであろう。このことについて、油井氏は、予断にもとづく事件捜査になぞらえて次のように述べている。
「被疑事実」に重大な錯誤があったわけである。そうだとすると、摘発・査問は、無効または取消原因となる。
党最高幹部は当初の見込みとちがったことに、ある種の無念さをおぼえたにちがいない。それは無謬性の神話に彩られた輝かしい履歴に、ある種の汚点をあたえた。だが、それを隠匿するかのように、自分たちの統制行為にいささかの変更を加えることなく新日和見主義を排除していった。一般社会では、予断にもとづく捜査はこっぴどく批判されるが、共産党にはそれがない。(36ページ)
ここで述べられていることには、ささいな点ではあるが同意しかねる説明も含まれている。確かに党中央の側に誤った予断があったことは事実であるが、「6中総」の不履行という規律違反容疑については、査問が開始された時点で党中央は、すでに争う余地のないものとしていた。その容疑について「重大な錯誤」があったと言うなら「摘発・査問は、無効または取消原因となる」だろうが、ここではそれについては触れられていない。
党中央が「6中総」反対を規律違反として重視していたことを裏付けるものとしては先に引用した査問官の発言のほかにも、次の事実をあげることができる。それは、「事件」で査問された者は、民青同盟幹部のみならず全学連関係者や評論家など広範囲に及んだにもかかわらず、処分された者は民青同盟幹部に集中していたという事実である。
したがってその背後に「国際共産主義運動の干渉主義」があったかどうかは重要な「被疑事実」には違いないが、党中央にとって摘発・査問自体を「無効または取消原因」とするものではなかった。それゆえに査問は継続され、関係者の処分までなされたのである。当然ながら、当時の党最高幹部、宮本顕治が「ある種の無念さをおぼえた」とは考えにくい。
では、この「6中総」反対容疑について油井氏は何と言っているか。
しかし査問では六中総反対を強引に認めさせた。私の場合もそうだった。それを認めなければ査問はおわらなかった。(56ページ)
川上徹氏の証言も合わせてみてみると、両者ともに「6中総」反対ではなかったが、それを強引に認めさせられたようだ。彼らは、「6中総」反対ではなく、その適用に当たって疑問や意見を正当な場で述べただけのことだとしている(『査問』40ページなど)。しかし、党中央は「6中総」反対だと断定した。その根拠には、決定の無条件実行を義務とする党規約の条項があると思われる。
これにかみ合った反論はみられないようだが、そもそも民主的討論をつくしていない決定は、党の決定としては有効とは言えず、それに異論をはさむことは党員の当然の権利である。しかも意見の違いによる組織的排除は党規約では認められていない。規律違反に問わなければならないのは、むしろそれを決定として押し通そうとした党中央の方だったとさえ言える。
党中央の「誤認」が一番の問題であったとする油井氏の見解は、終章において「党中央はなぜあのようなひどい査問をやったのか」を説明しているくだりで、次のように展開されている。
……党中央は致命的にも、当時民青内にあった現象を国際共産主義運動の一部の干渉者(はじめ北朝鮮、その後中国など)と結託して分派をつくり、やがて自分たちの地位をおびやかす反党的新日和見主義者の本気の策動と誤認してしまった。
人は、自分の地位がおびやかされると思ったとき死に物狂いで行動する。だが被疑者を監禁・査問しても北朝鮮の「き」の字も出てこなかった。ここで査問をやめておけばいいのに、党最高幹部は出てこないことでよけいアタマにきた。いつも自身があり睨んだことにまちがいはないと思っている無謬性の元締めだ。非転向、権力への非屈服は、だれもが畏敬する光り輝く戦歴である。しかし、それが無謬性のすべてを担保しているわけではなかった。(258ページ)
こうして油井氏は、「なぜあんなにひどい査問をしたのか」の理由として、「反党分派」だという指導部の誤認および最高指導者の自己保身を挙げる。査問する側が規律違反を争う余地のないものとみなし、またそれが大規模な「反党分派」だと確信して、党を守るという強い意志が働いたことは間違いない。これが指導者の自己保身と結びついたということだ。
ここではさらに「あんなにひどい査問」を可能とした条件も含めて少し掘りさげておこう。どのような組織でも、指導者の誤認や自己保身行為はありうる。しかし、それが実際に「事件」のような大規模な組織行動として実行されるためには、いくつかの条件が必要になってくるからだ。
そもそも「党中央は、なぜあのようなひどい査問をやったのか」と言われるとき、
想定されていることは、主として、(1)長時間かつ何日にもわたる連続した査問と、(2)その間家族との連絡さえも禁じた人権侵害の拘束、(3)口頭によるさまざまな脅しなどであろう。これらは世間一般では「犯罪」と呼ばれることがらである。
当時行なわれた査問がかくも長時間にわたったのは、「分派」容疑で調査する作業自体が大がかりになり、かつ長時間にわたるという事実を指摘しておかなければならない。なぜなら、「分派」を解明するには、党機関の知らないところで何らかの集団的謀議が存在し、なおかつ特定の政綱ないし政策・方針の存在とその集団的・系統的な宣伝・実行を証明しなければならないからである。
つまりこういうことだ。党中央は、党規約をたてにして規律違反と目される「容疑者」を個々に「取り調べる」のではなく、それらを集団的意思によるものとして、あたかも破防法(破壊活動防止法)の団体適用のごとく、ひとまとまりの集団を壊滅させようとした。破防法の発動が憲法で保障された表現の自由・言論の自由や集会・結社の自由を侵害すると言われるように、党中央は「反党分派」の壊滅をねらった結果、党内で自由に意見を述べ民主的討議をつくして集団的な意思形成をはかるという社会運動にとって不可欠な組織内民主主義をじゅうりんしてしまったのである。その意味において「事件」は、規律違反を集団(分派)に適用することの是非を問うているとも言える。たとえ「反党分派」というものが存在したのだとしても、個々の規律違反で十分に対処しえたのではないだろうか。
また主体的要因として、査問される側も大きな抵抗をみせずに素直に査問に応じ、言われるままに自己批判に至ったことも無視することのできない要因である。このあたりはスターリンのモスクワ裁判を想起させる。このような悲劇を繰り返さないための理論的作業も必要であろう。
さらに家族との連絡さえも禁じた人権侵害の拘束を行ないえたのは、党規約に規律違反の調査について具体的な規定がなく、人権にたいする配慮が制度として存在していないからである。この点については、油井氏も具体的に次のような改革提言をしている。
号外(先の総選挙期間中に発行された「しんぶん赤旗」号外のこと……引用者注)のようないいわけをするのではなく、これまで行なってきた査問の清算・廃絶を宣言すべきである。そして調査を行なう場合は人権侵害防止措置、調査の公平・公正措置、証拠の開示、党内紙・誌を含む釈明権の保障などのシステムを確立し、反共・謀略団体につけこまれる隙を与えるべきではない。(283ページ)
まさしく、その通りである。これらが実行されるならば、明確な規律違反でない限り調査されたり処分されたりすることはなくなり、党が失ってしまった「民主的に討論をつくす」党風を取り戻すための強力な基礎となるであろう。