新日和見主義事件の理論的切開を―書評:
 『虚構―日本共産党の闇の事件―』(油井喜夫著、社会評論社、1800円)

「事件」の背景

 「事件」の概要としては、すでに前著『汚名』や川上徹氏の『査問』(筑摩書房、1997年)で詳しく述べられているし、『さざ波通信』でも『汚名』の書評(S・T署名)でおおざっぱに触れているので必要ならば参照していただきたい。ここでは、党中央が「新日和見主義」をどうみたのかについて、その社会的背景と「事件」の概要についてそれぞれ関連する要点だけをおさえておきたい。

 70年代前半の国際的な背景としては、インドシナ人民の解放闘争(ベトナム戦争)とその連帯運動とともに、「人民戦線」が重要なキーワードとなっていた。「一九七〇年五月、セイロン(現スリランカ)、十一月、チリで、それぞれ共産党もくわわる統一戦線による政府が選挙によって樹立された。チリでは、九月の大統領選挙で、共産党、社会党、急進党など六組織による人民連合のアジェンデ候補が第一位を獲得し(得票率三六パーセント)、十月、上下両院合同会議の決選投票で大統領に選出された」(『日本共産党の七十年(上)』、新日本出版社、406ページ)。
 こうした国際情勢を背景に、党は「人民的議会主義」と呼ばれることになる路線を強く打ち出していく。第11回党大会(1970年7月)は、「七〇年代に民主連合政府樹立の展望をしめし」(同410ページ)、さらに革新三目標の提示、第12回党大会(1973年11月)の「民主連合政府綱領の提案」へと続く。日本共産党の党史にとって一つの画期をなす時期であった。この時期は、国政選挙および地方選挙における党の躍進の時期であり、とくに地方選挙において共産党と社会党を含む革新統一戦線と革新自治体の展開にはめざましいものがあった。いわゆる革新高揚期である。
 一方、日本の社会運動としてみれば、60年代の高度経済成長を経て、企業主義的な社会統合が成立していき、70年代にはすでに民間大企業の労組は社会運動から姿を消していた。企業横断的労働運動の後退にかわって、企業主義的な社会統合に統合されていない周辺部分(とくに青年・学生)および公共部門の労働者が闘争の主役となっていた。しかし、この時期を一つの峰として青年学生分野も後退していくことになる。
 また、「国際共産主義運動」との関連では、ソ連や中国の党による干渉とそれらに対応した「反党分派」との闘争の記憶がまだ生々しく、なお継続中の問題でもあった。それに加え、国際連帯の運動に朝鮮労働党金日成の個人崇拝がもちこまれるという問題が発生していた。ちょうど査問がなされている最中の72年5月17日に、日本共産党は朝鮮労働党に対し、「朝鮮総連との関係でおこっている問題について書簡で通報した」(同425ページ)。

 「事件」の半年前(1971年12月)に、第11回党大会第6回中央委員会総会(「6中総」)が開かれ、そこで三つの決定文書が採択される。その中に「民青同盟にたいする指導と援助の問題について」と題された決議があり、それにもとづいて党中央から民青同盟の幹部党員への指導が行なわれた。そこで党中央は、さまざまな形で抵抗にあう。特に民青同盟員の年齢制限を引き下げる案件については、地方幹部も含めて広範な疑問や意見が噴出した。
 当時の党幹部は、これを「6中総」の決定不履行という規律違反と判断した。このことは、たとえば油井氏の査問官が「君は六中総に反対したんだ」「それを、君が認めるかどうかが自己批判の核心だ」(『汚名』138ページ)と述べていること、また川上徹氏の査問官も「君は六中総に反対していますね」(『査問』39ページ)と発言していることから明らかであろう。さらに、抵抗の規模が大きかったために、背後に大がかりな反党分派策動ないし計画があるのではないかと党中央はにらんだ。
 こうして72年5月8日から、民青同盟幹部であった党員が次々に拘束・査問されていく。これら査問を受けた青年党員たちは、のちに「新日和見主義分派」と呼ばれることになった。これが「新日和見主義事件」である。

 まえおきが少し長くなったが、以上のことがらを念頭におきながら本書をみていくことにしよう。

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