新日和見主義事件の理論的切開を―書評:
 『虚構―日本共産党の闇の事件―』(油井喜夫著、社会評論社、1800円)

「新日和見主義」の実態

 次に、「やはり新日和見主義者たちはまちがったことをいっていた」という意見に対する油井氏の回答へうつる前に、「新日和見主義」の実態はどうだったのか、また誰が批判されたのか、についておさえておく必要があろう。

 考察したところ、情勢論などで党から批判されたのは川端治(山川暁夫)や香月徹(高野孟)くらいだろう。他に若干いたとしても、ほとんど二人に代表されるといっていい。川端に、「従属的日米帝国主義同盟論」や「核従属論」もあるが、彼らは共産党の枠内で議論展開しようとした姿勢がうかがわれる。(254ページ)

 批判されたのは、当時青年・学生党員に人気のあった評論家の「川端治」氏と「香月徹」氏であったという。彼らはジャパンプレスサービスという日本共産党の影響力が強い通信社の記者で、中央直轄で党の機関紙誌の政治評論や論文も執筆していた。ここの引用部分の後半は油井氏の感想だが、高野孟氏のホームページにおいて、当時の「事件」について語られていることは、それとは少し異なっている。長くなるが引用する。

 その頃私は25歳そこそこで向こう見ずだったから、理論的な問題意識や情勢分析の視点に関して党中央の見解の枠をはみ出すことを恐れなかった。そのため私の論文は何度か、党機関紙『赤旗』の論壇時評などで批判された。私は意に介さず、また党の影響下にある学生や青年の組織では、川端論文や香月論文のほうが党中央の臆病で無味乾燥な文書より人気があって、盛んに講演に呼ばれるという状況が生まれた。危険な兆候だった。
 決裂の時が来た。米国のポスト・ベトナム戦略や佐藤内閣による「沖縄返還」の評価を巡って、また当時の共産党指導部が打ち出していた「人民的議会主義」の下での選挙重視、労働運動・学生運動軽視の方針の評価などを巡って、我々は半ば公然と党中央を批判していた。宮本顕治らは、珍妙なことに、川端治や香月徹らは「北朝鮮労働党からカネを貰って日本共産党指導部の転覆を謀る陰謀的な分派を形成している」という幻覚を抱き、これを「新日和見主義集団」と呼び、全国の学生・青年組織の幹部約300人を一斉に検束・拉致・監禁して査問した。
 JPS(ジャパンプレスサービスのこと……引用者注)では党支部の総会が開かれ、中央から上田耕一郎(現幹部会副委員長)が乗り込んできて、川端と私が陰謀の首謀者としてさんざん糾弾され、そのまま上田に連れられて党本部に出頭させられ、1週間にわたり監禁され、査問された。査問の中で彼らは、私が党中央の情勢分析や組織方針と反する言動を弄して学生・青年をたぶらかしていると非難した。私は、私が中央と若干異なった見解を抱いているのは事実だが、「意見が違う」というのと「党を転覆する陰謀を企んだ」というのは全然別の次元の話で、仮に後者だというのなら私を反革命罪で除名したらどうか、と言った。彼らは、そうするだけの理由と証拠はないと認めた。それで私は、党中央に誤解を受けるような言動をしたことは申し訳ないという趣旨の「反省文」を提出して、無罪釈放された。

 つまり当時、「人民的議会主義」の名のもとに打ち出された路線が実践に適用されていく過程で、中央委員会に近いところに個別的な異論・抵抗が存在していたということである。それは新しい路線に対するオルタナティヴというよりはむしろ、「人民的議会主義」によってこれまでの党の路線に変更が加えられ、党が変貌していくことに対する半ば意識された抵抗であったと考えられる。
 このような抵抗は、政治的に批判された二人の党員に特有のものではなかった。民青幹部たちも同じように抵抗していた。だが、「川端治」氏や「香月徹」氏とは違って、明確な意識をもって抵抗したわけではなかった。こうして彼らはあちこちで党の指導にぶつかることとなり、党中央からみて「規律違反」とみなされるようなことが発生していた。そして大規模かつ公然たる動きとなる前に「弾圧」された――これが「新日和見主義事件」の真相であろう。
 もし、規律違反行為があったのなら、個別に警告・処分するだけで十分だ。このような「弾圧」にはいかなる正当性もなく、実際には党内民主主義のじゅうりん以外の何ものでもない。それは、まさしく「党規約の解釈権を独占し、統制処分を自由に行使できる側による思考と探求にたいする弾圧であった」(あとがきより)。

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