こうして党中央は、査問が終了したあと第12回党大会までの時期に、「新日和見主義批判」を展開する。油井氏は、これらの批判を検討することによって、三つ目の意見「新日和見主義者たちはまちがったことをいっていた」かについて具体的に検討している。まず、批判キャンペーンはどのようなものだったか。
新日和見主義にたいする理論的なキャンペーンは、一九七二年六月一二日の幹部会からはじまった。批判は一方的で無人の大地を行くごとく、一刀両断的だった。だれが、どこで発表した、なんという本あるいは論文を批判したのか、そのすべてがわからないものだった。私も民青内の一部の出来事をのぞけば、はじめて知るテーマがほとんどだった。
批判は政治路線から運動論、組織論、学習・教養問題、人生観にまで至った。素直に査問に応じた結果とはいえ、これほど多角的に批判され、数多い「罪科」を冠せられた「反党分派」は党史上皆無だ。(42ページ)
「反党分派」として批判された中身が、当事者にとっては「はじめて知るテーマだった」。このことからして、「新日和見主義」とされた同志たちが「反党分派」でもなんでもなかったことを物語っている。しかもその批判論文では、被批判者の名前や引用文献さえ示されなかった。その方法自体が、逆に批判した側に理論的・実践的な誤りが存在したことを示唆するものである。
また、党幹部はそれらを文脈から切り離し、捻じ曲げてともかく「批判」してみせた。そうすると批判自体が「虚構」と言わざるをえない。油井氏は次のように言う。
私は、前書『汚名』で共産党は人権無視の査問体質を廃絶すべきだと述べた。本書では被批判者の名前も論文名も書名もあきらかにせず、反論も許さない批判の手法は廃絶すべきである、ということを付け加える。それらの欠落したものが批判といえるかはなはだ疑問である。ヒステリックで打撃的な言葉を投げつけることができても学問的な意味では否であろう。批判は相手や文献を特定し、反論の機会をあたえてこそフェアであり、そうしてこそ真実の究明に貢献できるのではないだろうか。党中央が被批判者の文献を公表し、その批判個所を特定するよう求めたい。(257ページ)
はたして油井氏は、主として第4章から第11章まで、つまり本書の大半を費やして、これら党幹部からなされた批判を検討している。多方面にわたり、出所が明らかにされていないものを探し出して検討する作業は、非常に骨折りなものであったと想像できる。さながら党中央に対する当事者からの反批判となっている。それらを紹介する余裕はないが、当時「新日和見主義」として批判されたものは、マスコミなどの論壇で一般に言われていたこと、場合によっては党幹部自身の著作に書いていることと違わないものだったと彼は言う。また、独自の見解であっても、党の綱領などから離れないように慎重な議論を展開していたと言う。
しかし高野氏(「香川徹」氏)が、「半ば公然と批判していた」と証言している以上、批判は批判として検討する必要があろう。「新日和見主義者はまちがったことをいっていたか」という視点にとどまらず、「党の路線にまちがったものはなかったか」という視点をもつことが理論的解明のためには必要ではないだろうか。
また、油井氏は触れていないのだが、査問について「なぜあのようなひどい査問をおこなったのか」を解明するのと同様に、これらの批判キャンペーンについても、「なぜ」を解明する必要があろう。
その一つの答えとして、新たな路線を推進するためのテコとして「新日和見主義事件」を利用したのだと言えるのではないか。内部に敵をみいだし、それと闘うことで内部の異論を封じるとともに党員の戦闘意識を高め、それによって組織の活力を維持する手法は、スターリンの流れを汲む左翼組織の悪しき体質である。