革新運動の大義を裏切った決議案

1、第1章と第4章の検討

 国際問題を取り扱っているのは、今回の決議案では、第1章と第4章である。章の順番にこだわらず、まとめて論じたい。

世界史の本流と逆流と21世紀の展望

 決議案の第1章は、20世紀が全体として進歩の世紀だったとするとともに、そこには進歩の流れを体現する本流と、それに逆らう、アメリカを中心とした逆流があると特徴づけ、21世紀においてこの逆流とたたかい、本流の流れを開花させることを展望するという構成になっている。
 世界史の流れを本流と逆流に二分し、逆流と闘い本流を強めるという20世紀論をとなえるのは、啓蒙的な意味では、理解できないではない。おそらく、世界史の流れをきわめて大雑把に捉えるならば、だいたいにおいてそうなるだろう。しかし、21世紀を展望するときには、このどちらかに単純に分類できない2つの事象に注意を向ける必要があるのではないか? 
 1つは、ある意味で不可逆的な形で進行している環境と生態系の悪化、とりわけ先進資本主義国の過剰生産と過剰消費が生み出している環境破壊の問題である。この決議案では、環境問題に関しては、国内問題を扱った章でしか取り扱われておらず、世界的規模で深刻化している環境や生態系の危機については何も述べられていない。これは重大な欠落ではないだろうか? 決議案の第4章(13)では、「経済の『グローバル化』をめぐる2つの流れのたたかい」と題して、経済のグローバル化と多国籍企業の横暴が「貧富の差の拡大」や「国際的規模での独占化」「金融投機の横行」などを生み出していることが指摘されている。しかし、経済のグローバル化と多国籍企業や国際金融資本の支配する市場原理主義の国際秩序は、こうした諸問題と並んで、環境や生態系をも大規模に破壊している。
 21世紀の社会主義を展望するとき、この環境問題を核心の一つに位置づけることが必要になる。20世紀の「社会主義」は、この問題に関しては、体制としては本当に誇るべき成果を持っていない。思想および運動としては、1960年代以降、その一部の潮流でかなり重視されるようになったが、全体としては、われわれ自身を含めまだまだ認識が弱いといえる。
 わが党の綱領に関して言うと、第17回党大会における綱領の一部改定で、行動綱領に「党は、地球の環境保全のために努力する」という文言が入れられ、その後、第20回党大会での一部改定で、「党は、地球的規模で環境と資源を破壊する多国籍企業などの無責任な利潤第一主義の行動に反対し、その国際的な規制をはじめ、地球の環境保全のために努力する」に発展した。この改定は進歩的なものである。しかし、綱領の文言としてはあっても、政策的に十分具体化されているとは言えない。時代認識としても、この決議案に示されているように、しばしば欠落させられている。
 もう1つ重要な問題は、旧来の冷戦体制の崩壊によって、各地で民族紛争や宗教戦争や反動的民族国家の地域帝国主義的行動などが頻発していることである。かつては、こうした対立は、一方では現存秩序を維持しようとする地域の反動保守勢力をアメリカが支援し、それに対立する勢力は、多かれ少なかれ社会主義的色彩を持った運動のもとに糾合されていたために、左右の図式で捉えやすかったが、今日においては、しばしば、どちらを進歩の側に分類し、どちらを反動の側に分類すればいいのかが、それほど自明ではない状況になっている。
 アメリカ帝国主義を中心とする国際帝国主義は、こうした状況を利用して、あたかも中立的な国際秩序維持者であるかのようにふるまって、その軍事的行動を頻繁に発動し、世界の憲兵としての役割を担おうとしている。こうした状況は21世紀にはさらに深刻化し、複雑化するだろう。国際帝国主義によるこうした憲兵的行動にいささかも信任を与えることなく、いかにして、この複雑な情勢下において、左翼としての正しい方向設定を行なうべきか、これは、すぐには簡単に答えの出せない問題であり、共産党のみならず、すべての左翼が共同で知恵を出し合って新しいオールタナティヴを練り上げていくべき新しい課題である。

消えた帝国主義

 第1章と第4章を読んで気づくのは、「帝国主義」という言葉が、19世紀から20世紀初頭における歴史用語として使われることはあっても、現代のアメリカを中心とする先進資本主義国の国際政治を特徴づける言葉としてはまったく使われておらず、その言葉が入るべき文脈においてはすべて「覇権主義」ないし「干渉主義」という言葉が使われている。たとえば、「アメリカの横暴勝手な覇権主義を」、「こうした覇権主義と干渉主義が」、「アメリカの覇権主義と、『人道』の名による干渉主義」などである。
 国民の誰にでもわかってもらえる決議案にしたのだ、という弁明がただちに返ってきそうだが、だが「覇権主義」という言葉が一般に通用する言葉だとはとても思えない。「帝国主義」という用語の消失は、90年代になってから顕著になってきており、ここ数回の大会決議や報告でしだいに姿を消していき、今回ついに完全消失してしまった。前回の大会では、当初の決議案にはなかったのが、下からの批判がきいたのか、最終的に採択された決議には2ヶ所ほどその言葉が復活した。今回はおそらく復活しないだろう。
 帝国主義という言葉は、そのマルクス主義的含意からすれば、覇権主義や干渉主義に還元される言葉ではない。それは何よりも、レーニンが言うように、世界的な支配と被支配のヒエラルキー関係を表現する言葉であり、抑圧国と被抑圧国ないし、抑圧民族と被抑圧民族とを区別する基軸となるものである。抑圧側たる帝国主義国家と、被抑圧側たる民族国家との間の戦争において、その民族国家の国内体制が反動的であるかどうかにかかわらず、マルクス主義者は帝国主義国の敗北を望み、それを追求する。したがって帝国主義という言葉は、単なる歴史用語ではなく、マルクス主義者の政治的態度を決定する最も重要な実践的基準である。
 この言葉を現代的な政治的概念として追放することは、共産党の改良主義への変質を表現する一つの指標でもある。

国際連帯の基準

 わが党の国際連帯の基準は、昨年開かれた4中総をきっかけに大きく転換した。そのときはじめて、「自主独立、対等平等、内部問題不干渉」という3原則の対象を、無批判に他国の与党や保守政党にも広げるという方針が打ち出された(『さざ波通信』通信号外第4号参照)。これは第21回党大会の決議のどこにも書いていないものであり、明らかに、大会決定からの逸脱である。今回、この不破式「国際連帯」の基準が、正式に大会決議案に採用された。その部分を引用しておこう。

 外国の諸政党との交流では、さまざまな政治的・理論的立場にたつ外国の諸政党との交流・友好をすすめ、条件があれば協力を幅広く追求する。相手の党が保守的な政党であれ、革新的な政党であれ、与党であれ野党であれ、双方に交流開始への関心がある場合、「自主独立、対等・平等、内部問題相互不干渉」の3原則にもとづいて、関係を確立し、率直な意見交換をおこない、可能な場合には共同の努力をはかる。

 このような「国際連帯」論の一実践が、昨年の秋に行なわれた東南アジア歴訪である。この歴訪において、不破代表団は、東南アジア人民を強権で支配しているマレーシアやシンガポールの反動政府の高官と友好的に交流し、解雇を自由に行なえる法律についてさえ、黙認の姿勢を見せた。これは、『さざ波通信』第7号の雑録論文で指摘したように、本来の国際連帯とは正反対のものであり、各国人民の闘いに水をかけ、それに干渉する行為であった。共産党自身、かつて、ソ連や中国が日本政府と無批判に交流し、日本政府を美化する発言を繰り返してきたことを、きびしく批判してきた。たとえば、1979年5月18日の不破書記局長(当時)の談話は、日本政府の政策を賛美した中国政府を、口をきわめて非難している(『日本共産党国際問題重要論文集』第11巻)。その不破委員長は、昨年、経済大国になった日本の有力政党として東南アジアを歴訪し、人民弾圧の政府の高官と仲良く会見し、労働者解雇法に「とやかく言わない」などと言っているのである。
 今回の決議案においては、4中総での「連帯」基準が確認されているだけではなく、さらに、各国の在日大使館を「それぞれの国民を公的に代表する機関であり、ひきつづき対話と交流の発展につとめる」と述べている。大使館はそれぞれの「国民」を代表するのではなく、それぞれの国家を代表するのである。国家と国民(ないし人民)は同じではない。大使館は、しばしば、他国への干渉の道具やスパイの養成所になっているし、とりわけ在日のアメリカ大使館はそうである。ところが、今回の決議案は、そうした大使館のあり方に対する批判を完全に欠落させて、「国民の代表者」に仕立てあげ、それとの「対話と交流の発展」を無批判にうたっている。今回の大会で、アジア諸国およびG8の在日大使館に対し招待状が出されたそうだが、それはまさに、この反人民的国際連帯路線の一環である。

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