決議案は、90年代の全体としての特徴を、共産党の躍進として総括し、今年の総選挙の敗北を、この躍進の流れの中で、反共攻撃によって生み出された結果としている。決議案は、こうした躍進の流れについて次のように述べている。
この変化は偶然のものではない。その根本には、90年代に、党の政治路線と日本社会のもとめるものとが接近し、合致してきたという客観的背景がある。また、そのもとで、党の綱領路線を、「日本改革」の提案として縦横に具体化してきたことが、広い国民の心をとらえつつあることがあげられる。
あいかわらずの総括の仕方である。90年代中ごろから共産党が選挙で躍進した最大の要因は、社会党の崩壊であり、社会党に投じられていた革新票の有力な一部が共産党に流れたことである。決議案は、衆院選での得票、得票率が523万票(正確には522万票)、7・9%(90年総選挙)から、671万票、11・2%(2000年総選挙、比例区)に増大したとしているが、その間に、社会党(社民党)の得票、得票率は、1600万票、24・4%(90年総選挙)から560万票、9・4%(2000年総選挙、比例区)に激減している。両党の合計得票で見ると、90年の約2100万票から2000年の約1200万票へと半分近くに激減させているのである。
その得票数の流れをもう少し詳しく見ると、共産党は、523万(90年)→483万(93年)→727万(96年比例)→671万(2000年比例)という変遷をたどったのに対し、社会党(社民党)は、1600万(90年)→969万(93年)→354万(96年比例)→560万(2000年比例)という変遷をたどっている。社会党は90年から93年と、93年から96年にかけて、2度にわたって激減させているが、その激減の理由は実は正反対である。90年から93年にかけて激減した理由は、90年総選挙のさい土井社会党に期待して新たに社会党に投票した都市部の新保守主義的有権者が社会党に見切りをつけて、92~93年にいっせいに進出した新保守党(新進党、日本新党、さきがけ)にどっと流れたことである。実際、この総選挙で社会党はとくに都心部で大敗を喫し、東京都では、委員長の山花以外全員落選という悲惨な結果をこうむった。逆に、新党は都市部を中心に大躍進し、新進、日本新党、さきがけの3党だけで1300万票以上も獲得した。この得票の半分弱は社会党からで、半分強は自民党からのものである(自民党は90年から800万票も減らした)。
それに対し、93年から96年にかけての社会党(社民党)の激減はまったく違った性質を持っている。それは、伝統的な社会党支持層が社会党を見限った点で画期的であった。そして、社会党が完全に革新の原則を放棄し、新保守政権および保守政権に参画したことで、伝統的革新票が大規模に離れて共産党に流れた。他方では、民主党が立したことで右派票がそちらに離れ、残った中間票だけが社民党に投じられた。
96年から2000年にかけて社民党が多少、得票を戻し、共産党が逆に減らしたのは、すでにこれまでの『さざ波通信』で詳しく述べてきたように、共産党の右傾化と、社会党の野党色の押し出しを主たる要因にしている。
さらに、革新の総得票数と保守・新保守の総得票数の変遷を比較するなら、90年代は、全体として、「党の政治路線と日本社会のもとめるものとが接近し、合致してきた」のではなく、保守化が著しく進んだと総括できるはずである。90年に社共の総得票数2100万票に対し、自民党は3000万票。ところが2000年には、社共の総得票数1200万票に対し、自民と自由と民主、保守を足した保守・新保守政党の総得票数は約3800万票である。その差は、約2対3から、約1対3になっている。しかも、その間に、社会党は革新の大義を完全に裏切って、安保・自衛隊容認になっているし、中間政党の公明党はいちじるしく保守化している。
もし本当に「党の政治路線と日本社会のもとめるものとが接近し、合致してきた」のなら、どうして、共産党は今さら、日本社会の多数意識に合わせて、国旗・国歌の法制化を求めたり、自衛隊の活用論を唱えたりするのか? なぜ、社会の保守意識の方へと自分たちの政策をずらさなければならないのか?
日本社会の全体としての保守化ないし新保守化の原因を真剣に追求しないかぎり、本当の意味で、日本社会の革新的展望は生まれないだろう。
また、決議案は、野党共闘に関して次のように述べている。
わが党は、この方針にそくして、新進党の解党という98年以後の野党状況の変化のなかで、国会での野党共闘のための努力をはらってきた。その努力のなかで、国会での「日本共産党をのぞく」という体制が過去のものになったことは重要である。
「『日本共産党をのぞく』という体制が過去のものになったことと」と引き換えに、共産党の野党批判はいちじるしくトーンダウンすることになり、民主党の党首が、集団的自衛権やPKFへの自衛隊参加の凍結解除や9条改憲を大々的に宣言しても、共産党の側からそれに対するまともな批判一つないという、何とも情けない状況が生まれた。現在の民主党に比べれば、はるかに革新的であったかつての社会党に対して、あれほどまでに激しい批判をしたことはいったい何だったのか? もちろん、この決議案は、現在の野党を手放しで評価しているわけではない。次のようなささやかな「苦言」が呈されている。
しかし、野党共闘は、全体として、現政権に反対するという共闘にとどまっており、政策課題を実現する共闘は、ごく部分的にしかおこなわれていない。
この根本には、わが党以外の野党諸党が、現政権への批判をいうが、政治路線では、全体として自民党政治の枠内にとどまり、それに対抗する軸をみいだせていないという現状がある。自民党との「対抗」を「鮮明」にするために、自民党以上に自民党的な政策を掲げるという状況も、一部に生まれている。
「一部に生まれている」だけなのか? いやそうではない。現在の野党の中で、議席の上でいちばん重要なのは、民主党であるが、その民主党こそがまさに「自民党との『対抗』を『鮮明』にするために、自民党以上に自民党的な政策を掲げ」ている。もう1つ重要な野党は自由党であるが、これは民主党よりもずっとはっきりと「自民党以上に自民党的な政策を掲げ」ている。残る野党は、共産党と社民党だけである。つまり、議席の重みからするなら、野党の大多数は、「自民党以上に自民党的な政策を掲げ」ていると言わざるをえない。
決議案は、「野党間での必要な批判と論争をおおいにおこなう」と言うが、この決議案が発表されてからも、「必要な批判と論争」が行なわれた形跡はまったくない。われわれがトピックスで指摘したように、民主党の鳩山党首が10月15日に、9条を廃止して集団的自衛権も認めよと発言したことに対して、共産党は『しんぶん赤旗』で小さく報道しただけであった。翌日には鳩山は周辺事態においても自衛隊が武力行使する可能性を示唆したが、それについては赤旗は報道さえしなかった。「野党間での必要な批判と論争」はいったいどこに行ったのか?
この野党論に関しては、前回の第21回党大会決議から見ても、明らかに後退している。そのとき、わが党がどのように語っていたかを振り返ってみよう。
この新しい躍進の流れは、一時的なものでも、偶然のものでもない。国政でも地方政治でも、日本共産党以外のすべての党が自民党政治に吸収され、“総自民党化”政治ともいうべき政界の構造がつくられていることに根ざした変化である。
“総自民党化”政治のもとで、自民党一党政権の時代にはできなかった悪政がつぎつぎに強行された。この数年間でも、小選挙区制・政党助成導入、消費税増税、コメ輸入自由化、年金制度改悪、住専処理への血税投入、医療保険改悪、米軍用地特別措置法改悪など、これまでならいくつもの国会にわたって紛糾するような悪法が、国民多数の反対をおしきって連続的に強行された。国会の外での密室談合で合意ができたら、国会での本格審議なしに強行されるという、議会制民主主義の形がい化・空洞化がすすんだ。国民への公約はふみにじられ、政党と政治家は離合集散をくりかえし、無節操さは目をおおうばかりとなった。そのあまりの異常さにたいして、それをすすめる当事者たちからも、「戦前の大政翼賛会を思わせる」との危機感と不安が語られている。
“総自民党化”の土俵のなかで、にせの「対立軸」、にせの「受け皿」をつくる試みがくりかえされた。しかし、あれこれの新党づくりや、看板のかけかえが、どんな意味でも新しい政治を生みださず、自民党による悪政の推進を助ける役割しかもたないことは、新進党、民主党、社民党などの現状によって、実証されつつある。これらの党にたいして、都議選で都民のきびしい審判がくだされたことは、こうした小手先細工には未来がないことを、はっきりとしめした。
無党派層の増大は、“総自民党化”した政治にたいする、国民の幻滅と拒否を背景にしたものである。これらの人びとのむいている方向は、さまざまな模索をともないながらも、全体として日本共産党と立場を共有しうるものである。わが党は、広大な無党派層の人びととの対話、交流、共同のために力をつくしてきたが、都議選では投票した無党派層の約4人に1人が日本共産党を選択したという調査結果も報道されるなど、共同の輪は選挙のたびごとにひろがりつつある。
“総自民党化”した諸党との対比で、いま、日本共産党の存在意義が、あざやかにうきぼりにされている。国民の立場で筋をとおす政治的一貫性が、広い人びとのなかに新鮮な共感をよびおこしている。日本共産党の存在と活動は、“総自民党化”の政治のもとで、みずからの暮らしをまもり、希望ある未来をねがう人びとの、かけがえのないよりどころとなっている。
このように、第21回大会決議は、共産党の躍進の原因が、他の政党が総与党化したにもかかわらず、共産党だけが革新の旗を守っていたことに求めていた。これは、「党の政治路線と日本社会のもとめるものとが接近し、合致してきた」ことに躍進の原因を求めている今大会の決議案よりもはるかに正確な情勢認識である。そして、他の野党については、「あれこれの新党づくりや、看板のかけかえが、どんな意味でも新しい政治を生みださず、自民党による悪政の推進を助ける役割しかもたないことは、新進党、民主党、社民党などの現状によって、実証されつつある」とはっきり述べていた。
ところが、98年以降、このような「総与党化」批判はしだいに影をひそめるようになり、それに代わって、野党共闘論が前面に出てくるようになった。いったいいかなる情勢の変化が生じたのか? 今回大会決議案が述べている唯一の情勢変化は「新進党の解散」だけである。だがなぜ、新進党が解散すると、総与党化状況にそんなに大きな変化が生じるのか? 「自民党による悪政の推進を助ける役割しかもたな」いはずの民主党が、どうして突然、いっしょに政権作りさえ担えるような政党に成熟したのか? 逆に、新進党の解散によって、新進党を構成していた有力な保守的部分(羽田派)が民主党に合流することで、民主党における旧社会党的部分の比重はいちじるしく下がった。全体として民主党は、新進党解散以前よりも保守的になった。民主党がいっそう「与党」的存在になることがあったとしても、より野党的になる理由など存在しないではないか?
今回の決議案には、2000年総選挙についての最終的な総括も書かれている。
わが党は、党内外の多くの人々の意見に耳を傾け、6中総決定、7中総決定で、総選挙のとりくみの総括と教訓を明らかにした。これは、そのまま、わが党の新たな前進のための大きな指針となるものである。
「党内外の多くの人々の意見に耳を傾けた」と殊勝に決議案は語るが、党指導部に批判的な意見には耳は傾けられなかったようである。決議案における総括は、基本的にこれまで党指導部が言ってきたことと本質的に変わらない。後退した原因は反共攻撃と、組織建設の遅れ、である。こうした見解に対するわれわれの批判は、すでに『さざ波通信』の号外第5号と、『さざ波通信』第14号の6中総批判論文で詳細に検討しているので、それを参照にしてほしい。
ここで言っておきたいのは、今回の決議案が自衛隊の事実上の容認と活用論を正式に唱えたことで、共産党に対する革新的有権者の目は一段と厳しくなり、ますます共産党が追い詰められる結果になるだろうということだけである。今回の決議案がそのまま通れば、国会にはもはや自衛隊容認勢力しかないということになる。そうだとすれば、あえて共産党に投票する理由はない。政策の革新度が同じ程度なら、独裁的体質のない政党を選ぼうとするのは、有権者としてごく自然な成り行きである。
共産党指導部は、今回の規約改定案で、言葉上の「ハードな」規定を取り除いたが、その実質においては、いっそう党内の独裁的体質を強めるものとなっている。また、『さざ波通信』に対する攻撃に見られるように、異論を排除しようとする姿勢には、何の改善も見られない。意識の高い有権者であればあるほど、民主主義的感覚の鋭い有権者であればあるほど、共産党を投票対象からはずすだろう。
共産党の不幸は、党外と党内との恐るべきギャップにある。党外の革新的有権者が共産党のこの間の姿勢への批判を強めつつあるのに、党内においては、そのような革新的世論の声を反映させることのできる有力な潮流は一つも存在しない。個々の党員が、まったく孤立した状態で細々と異論を唱えているだけである。今回の総選挙における深刻な敗北にもかかわらず、中央委員会総会でただの一つも批判意見が出されず、満場一致で6中総決定、7中総決定が採択された。どんな政党でも、野党がすべて躍進する中で一人自分の党が大敗を喫したなら、当然、指導部の責任を問う声が上層からも出るものである。だが、徹底して異論派を取り除き、指導部に対する絶対的崇拝をつくり出すことに成功した現在の共産党は、どんな場合でも絶対的一枚岩を誇れるまでになった。真の愛党心から苦言を呈する幹部すら一人もいなくなった。ここに共産党の不幸がある。そして、この不幸は、共産党指導部が袋小路からの活路を右に求めれば求めるほど深刻になるだろう。