岐路に立つ日本共産党
 ――第22回党大会をふりかえって

1、志位報告と決議の検討

自衛隊活用論の正当化と補強(3)――正当化論の混迷

 志位報告は、決議案が打ち出した自衛隊活用論に対する各種の批判に対し、あれこれと反論を試みている。その一つ一つについて検討しよう。

  自衛隊の引継ぎと活用
 まず、志位報告は次のように述べている。

 第一に、憲法との矛盾をいうならば、自衛隊の存在そのものが憲法との矛盾であり、その活用だけではなく、予算の支出もふくめて自衛隊にかかわるあらゆる事柄が、憲法との矛盾となります。自衛隊の段階的解消という方針をとる以上、一定期間、憲法との矛盾がつづくことはさけられません。この矛盾は、われわれに責任があるのではありません。先行する政権から引き継ぐさけがたい矛盾であります。憲法と自衛隊との矛盾を引き継ぎながら、それを憲法九条の完全実施の方向で解消することをめざすのが、民主連合政府に参加するわが党の立場であります(拍手)。私たちはこの立場こそ、憲法の平和原則を実現していくもっとも積極的、能動的な、政治の責任ある態度であると考えるものであります。(拍手)

 どんな革命的政権でも、旧政権の遺物を一定期間引き継がなければならないのは当然である。だが、違憲の存在である自衛隊を引きつぐことと、それを活用することとはまったく次元の異なる問題である。不破指導部は、暫定連合政権構想において、周辺事態法を発動しないことを政権参画の前提条件として持ち出している。これは、違憲の周辺事態法が単に存続するだけよりも、それを「活用」することの方が罪が大きいことを不破指導部も理解していることを意味している。この問題についてぜひ答えていただきたいものだ。

  軍事同盟と核武装も肯定する論理
 次に志位報告はこう述べている。

 第二に、憲法との矛盾を解消する過程で、かりに「急迫不正の主権侵害」などが発生し、警察力などだけで対応できない事態が発生したらどうすべきか。わが党は、そういう事態が起こることは、現実にはほとんどありえないと考えています。「それならばなぜわざわざその答えを書くのか」、「黙っていればいいではないか」、こういう意見もありました。この問題についての回答を書いたのは、国民が自衛隊の存在を必要と考えている段階では、国民からこの疑問が提起されるからであります。国民の安全に責任をおう党ならば、あくまで理論的想定にたいする理論的回答であっても、国民の疑問に答える責任があります。
 そのさいには、「可能なあらゆる手段」を用いて、国民の生活と生存、基本的人権、国の主権と独立など、憲法が立脚している原理を守るために全力をつくすことが、政治の責任であって、そのときに自衛隊が存在していたならば、この手段のなかから自衛隊を除外することは、国民の安全に責任をおうべき政党のとるべき立場ではないというのが、決議案の立場であります。「急迫不正の主権侵害」がおこったときに、国民に抵抗をよびかけながら、現に存在している自衛隊にだけは抵抗を禁止したとしたら、これはおよそ国民の理解はえられないことは明白ではないでしょうか。

 「ほとんどありえない」ことでも、それに答えるのが「国民の安全に責任をおう党」としての「責任」だそうである。「かりに警察力などだけで対応できない事態が発生したらどうすべきか」に対する答えとして、違憲の自衛隊を活用することが正当化されるなら、次のような「問い」が発せられたらどうするのか。「かりに、一国の軍事力だけで対応できない事態が発生したらどうすべきか」。この問いに対しては、「他国の軍事力を活用する」と答えるのが、「国民の安全に責任をおう党」としての当然の責任ある回答ということになるだろう。「そのときに米軍が存在していたならば、この手段のなかから米軍を除外することは、国民の安全に責任をおうべき政党のとるべき立場ではない」ということになるだろう。同じように、「常備軍で対応できない事態が発生したらどうすべきか」という問いに対しては、「核兵器を活用する」と答えるのが、「国民の安全に責任をおう党」としての当然の責任ある回答ということになるだろう。「そのときに核兵器が――米軍による持ち込みの結果として――存在していたならば、この手段のなかから核兵器を除外することは、国民の安全に責任をおうべき政党のとるべき立場ではない」ということになるだろう。
 結局のところ、志位報告の論法に従うなら、自衛隊の活用のみならず、米軍や軍事同盟の活用、核兵器の活用までも肯定されなければならないことになる。実際、すべての国が軍隊を保持し、ほとんどの国が軍事同盟を結び、そして、一部の大国が核兵器を保有しているのはすべて、「かりに……の場合はどうするのか」という想定にもとづいているのである。そしてこの論法こそ、根本的に憲法9条を否定する論理に他ならない。

  有事立法を否定できるのか
 続いて志位報告はこう述べている。

 なお、決議案で自衛隊の活用としているのは、自衛隊解消を追求する過程で、かりに「万が一」の事態がおこったら、その時点において存在し、使用しうる手段を、使用できる範囲で生かすというものであります。有事立法をはじめ、自衛隊の役割と行動を拡大するためのいかなる新規立法にも、わが党が反対であることはいうまでもないことであります。

 自衛隊の活用を肯定しながら、有事立法に反対するのは、いかなる論理にもとづいているのか? 有事立法とは、建前上は、急迫不正の主権侵害があり、警察力で対処できないときに、自衛隊が出動するさいに、その自衛隊の行動を法的にルール化したものである。たとえば、ある海岸に他国の軍隊が上陸したとしたら、そこに向けて戦車や各種部隊が終結して迎え撃たなければならない。そのさい、その移動に際して道路交通法をどうするのか、火器を使うときに警職法や消防法との整合性をどうするのか、その戦闘の際に生じた器物の破損や人命の損失に際してどう対処するのか、あるいは軍事行動の機密保持のための措置をどうするのか、あるいは、そのような軍事行動の際に市民的権利の制約をどこまで認めるのか、などなど、まさに軍事行動の最初の一歩から、既存の法体系との整合性が問題になる。しかし日本の各種法規は、そのような有事を想定した法体系にまったくなっていない。したがって、自衛隊を活用するためには、そのような既存の法律に例外を設け、自衛隊の行動を円滑に進めるための法体系をどうしても必要とする。それが有事立法である。
 党指導部は、有事の際の法的ルールもなしに、まさに超法規的措置として自衛隊を活用するつもりなのか? 自衛隊の活用を「当然」としながら、有事立法に反対するのは、党指導部が、自衛隊の活用ということを、すなわち人命の大量の喪失をともなう軍事というものを、まったくの机上のものとしてもてあそんでいることを意味する。
 また、有事立法には反対といいながら、修正された決議にはやはり、有事立法について一言もないのはどういうわけか? 決議は次の大会までの全党の行動方針である。この2~3年間のうちに有事立法が政治の焦点になる可能性はきわめて高い。にもかかわらず、大会決議に一言も有事立法反対の闘争について書いていないのは、いったいどのように説明するのか?

  対米従属の軍隊の活用
 志位報告は、第三として次のように述べている。

 第三に、自衛隊の本質は米軍に従属した軍隊であり、国民の安全のために活用するなどということは、この本質をみていないのではないかという意見もありました。しかし、決議案は、米軍に従属した軍隊としての自衛隊の危険性をリアルに直視しているからこそ、第一段階で、戦争法の発動など自衛隊の海外派兵を許さず、軍縮に転じること、第二段階で、米軍との従属的な関係の解消をはじめとする自衛隊の民主的改革と抜本軍縮の措置をとることなどを主張しているのであります。
 だがこの議論は二重の意味で成り立たない。まず第一に、すでに述べたように、自衛隊を対米従属の軍隊であることを認めるなら、第二段階で安保条約を解消し米軍との従属的関係を解消する過程でこそ、自衛隊が政権に対して動員されることになるだろう。第二に、まだ安保条約が維持されている第一段階で、急迫不正の主権侵害が起きたらどうするのか、という問いに答えなければならない。総選挙前の不破委員長の朝日インタビューでは、野党連合政権のような第一段階でも自衛隊を活用することが肯定されていた。ところが、決議案でも志位報告でも修正された決議でもこの点について何も言われていない。まずもって、この論点に答えるべきだろう。

  社会党との違い?
 志位報告はさらに、社会党との類比論に次のように反論する。

 第四に、今回のわが党の方針を、「かつての社会党のようにならないか」と心配するむきもあります。しかし、一九八〇年の社会党と公明党との政権合意(「社公合意」)を転機とした社会党の右転落は、安保条約容認に転換したところに、その中心的問題がありました。この安保容認論は、一九九四年の村山内閣で、自衛隊を公然と合憲と容認する立場にゆきつきました。こうしたかつての社会党の安保容認・自衛隊合憲論と、日米安保廃棄をいっかんして追求しながら、国民合意で自衛隊解消をめざす決議案の方針に、いかなる共通点もないことは、明瞭ではないでしょうか。

 この志位報告によると、社会党は1980年の社公合意をきっかけとして安保条約容認に転換したらしい。これはひどい歴史偽造である。社会党は、党としては村山内閣まで、いちおう安保条約廃棄、自衛隊解散の立場であった。たとえば、1981年に開かれた第45回社会党定期大会において、「安保廃棄・軍事基地撤去・自衛隊反対・核兵器禁止のたたかい」が、大会決定の中に位置づけられている。また、1983年に社会党は「非武装中立をめざす平和のためのプログラム」を策定しているが、その中でも「日本はいかなる仮想敵もつくりませんし、いかなる軍事同盟にも入りません。国の独立・主権・領土保全の立場に立って、非同盟・中立の外交を展開します」、「アメリカとの間には、日米安保を解消した後、友好関係を保障する条約を締結します」と述べている。
 たしかに、社会党は、80年代に、安保の一方的廃棄論から外交交渉による廃棄論へと転換した。これは当時わが党が厳しく批判したように、安保容認につながりかねない右転換であった。しかし、安保容認につながりかねないことと、党として安保を容認することとは異なる。平和問題での旧社会党の政策を15~20年遅れで採用している日本共産党は、安保条約に関しても、現実主義の名において社会党の転換を見習う可能性は否定できないだろう。
 また、1980年の社公合意は、当面する80年代前半の政権構想としては、安保条約廃棄までには至らないことを前提としていたが、これはあくまでも、社会党の意のままにはならない連合政権での過渡的政策にすぎない。しかも、その政権構想は安保条約を積極的に容認したものではなく、安保条約解消のための条件づくりがいちおううたわれていた。当時、共産党は、この政権構想が共産党を排除し、かつ、安保廃棄に取り組まないことをもって、社会党が右転落したと糾弾し、この社公合意を安保容認の政権構想だと非難した。この非難がもし正当だとすれば、共産党が今回、自衛隊の解消を三段階に分け、その第一段階では安保廃棄をうたっていないことから、共産党も安保条約容認に転換したと言うことも可能なはずである。しかも、共産党の唱える暫定連合政権構想では、安保条約廃棄に向けた条件づくりについてさえ言われておらず、逆に安保条約の維持とその法的枠内での運用が言われていた。
 興味深いのは、この引用文の中で、志位書記局長が、社会党の安保政策との違いだけを強調し、自衛隊政策との違いについては何も述べていないことである。自衛隊の三段階解消論は、すでに社会党が1980年代に打ち出していた路線である。志位報告によると、「自衛隊の段階的解消という方針は、国民合意の尊重という国民主権の原理をふまえた方針であるとともに、国民の多数を結集しながら、国民とともに、自衛隊解消にすすむために、もっとも合理的で現実的な方針」である。とすれば、社会党はすでに今から20年近くも前に、「もっとも合理的で現実的な方針」を提案していたことになる。そのときになぜ共産党は、社会党に対して「右転落」などという打撃的なレッテルを貼り付けたのか? 
 もっと言えば、80年代の社会党は、自衛隊の活用を当然とするような反動的議論を展開していなかった。社会党の自衛隊段階解消論は、あくまでも、解散するには段階を踏むべきだというだけのもので、その過程で自衛隊を活用するという発想はなかった。したがって、自衛隊の活用を当然とする今回の共産党の立場は、80年代の社会党の自衛隊政策よりもはるかに右寄りであると言わなければならない。

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