次に志位報告は、例の「万が一」論について次のように再論している。
つぎに、決議案がいう「アジアの平和的安定の情勢が成熟」し、「憲法九条についての国民的合意が成熟」する――言葉を変えていいますと、国民の圧倒的多数が「万が一の心配もない。もう自衛隊は必要ない」という合意が成熟することが、はたして可能なのかという疑問もありました。
「どこかが攻めてきたら」という机上の抽象論でなく、具体論で考えるならば、二十一世紀には可能になるというのが、私たちの確固とした展望であります。七中総の結語でものべたように、日本の周辺の国・諸国ということを考えた場合に、アメリカ、朝鮮半島の韓国と北朝鮮、中国、東南アジア、ロシア――この五つの国・諸国と、民主的政権のもとで真の友好関係がつくられ、平和的関係が安定・成熟していく展望は、十分に根拠もあれば可能性もある現実的展望であるというのが、わが党の認識であります。
こうした議論の是非を、まず憲法9条の観点から検討してみよう。
そもそも「万が一の心配もない」とはどういう状況だろうか? 「机上の抽象論」ではなく、「具体論」として考えるならば、「万が一の心配もない」という状況は、他の国に自衛のための軍隊も存在しない状況でしかありえない。なぜか?
現在、侵略のために軍隊を持っていると公言している国はどこにもない。すべての国は、建前のうえでは、もっぱら自衛のためのみに軍隊を保持しているのである。だが、すべての国に侵略の「悪しき意図」がなく、もっぱら自衛の「良き意図」しかないとすれば、なぜそもそも軍隊を保持する必要があるのか? ここで、根本的な撞着が生じる。それは、「自衛のための軍隊」という論理から不可避的に帰結される矛盾である。すなわち、自分の国はもっぱら自衛のためにしか軍隊を使用しないが、他の国は、自衛のためと言いながら、実は侵略のために使う可能性を持っているのだ、というものである。そして、どの国もこの論理を採用する。どの国も、自分の国の軍隊はもっぱら自衛のためであり、他国の軍隊はそうではない、という論理を採用しているのである。
なぜ、「自衛のための軍隊」だと公言していても、他の国はそれを信用しないのか? その理由は簡単である。武器は武器であり、軍事は軍事である。もっぱら自衛のために役立って、攻撃のために役立たない武器や軍隊などというものは存在しない。自衛するためには、侵略者を的確に攻撃し、殺傷しなければならない。そしてそのような「威力」や「的確さ」はすべて、侵略する場合にも有効である。したがって、「万が一の心配もない」とは、ただ「自衛のための軍隊」さえ存在しない事態を想定するしかない。
いくら平和外交を推進したとしても、他の国が軍隊を保持しているかぎり、「万が一の可能性」はなくならない。したがって、「万が一の心配もなくなったら軍隊を解散する」という理屈は、結局は、他のすべて国が軍隊を解散するまでは自分の国の軍隊は解散しないという理屈でしかない。だが他の国も同じ論理を採用する権利があるので、つまり、自分以外のすべての国が軍隊を解散してから自分の国の軍隊も解散しましょう、という論理を採用するので、結局、永遠に憲法9条を完全実施する時は訪れない。
つまり、「万が一の心配もなくなってから軍隊を解消する」という論理は、「万が一の心配があるかぎり軍隊を保持する」という論理、すなわち他のすべての国が公式に採用している論理を別の言い方で言ったものにすぎないのである。
日本国憲法前文と憲法9条は、実は、このような自衛の論理(自分以外のすべての国を潜在的侵略者とみなす論理)を根本的に否定した次元に存在している。それは、自国の安全を、他国への敵意と軍事的自衛によってではなく、公正と平和を愛する諸国人民との連帯とそれら人民の平和のための闘いを通じて確保しようとする。それは、侵略される可能性が大きいか小さいか、という可能性の大小にもとづいているのではなく、自国をはじめとするすべての国の侵略可能性を根絶しようとする草の根の国際的闘争にもとづいている。それは、すべての国の人民に次のようなメッセージを伝える。他の国が自分の国を侵略する可能性を心配するよりも、自分の国が他の国を侵略する可能性をこそ心配せよ、と。
そして、このメッセージが最も妥当するのは、何よりも、過去に侵略を繰り返してきた帝国主義諸国であり、その最たる国が、ほんの50数年前に朝鮮半島、中国大陸、東南アジア、南アジアを侵略し、殺戮と略奪をほしいままにした、わが日本である。もちろん、他の帝国主義諸国にもあてはまるし、何よりもアメリカにあてはまる。
次に、階級論の観点から考えてみよう。
階級論の観点から考えるなら、志位報告が言うような「アメリカ、朝鮮半島の韓国と北朝鮮、中国、東南アジア、ロシア――この五つの国・諸国と、民主的政権のもとで真の友好関係がつくられ、平和的関係が安定・成熟していく展望は、十分に根拠もあれば可能性もある現実的展望である」というのは、まったくの空理空論である。これは、党綱領自身が語っているアメリカ帝国主義の反動的役割、「世界の憲兵」としての侵略的本質を無視するものである。
日本において、安保条約を廃棄し、アメリカの世界戦略に穴をあけ、さらには社会主義をめざす政権が成立するというのに、世界の憲兵たるアメリカ帝国主義が、そうした政権と平和的で友好的な関係を結ぶと想定することは現実的であろうか? 志位報告は、ただ「十分に根拠もあれば可能性もある現実的展望である」と断言するだけで、その理由については何も述べていない。アメリカ帝国主義の平和的・友好的態度を前提にした「憲法9条の究極的完全実施論」は、机上の空論であり、アメリカ帝国主義に対する人民の警戒心を解除することに役立つだけである。
以上見たように、憲法9条の観点からしても、階級論(ないし帝国主義論)の観点からしても、「万が一の可能性がなくなってから自衛隊解消に着手する」という議論は破綻している。それは、結局、自衛隊の永久的保持という結果にしかならないだろう。