さて、次にドイツ共産党のインタビュアーは、「規約改定で、日本共産党が将来の社会の指導勢力であると自認するような個所は削除されました。社会にたいするこうした党の態度は、どういう考え方と結びついているのですか」という質問を発している。それに対して不破議長はこう答えている。
私たちは、今回の党規約改定で、「前衛政党」という用語を削除しました。この規定は、わが党がかなり伝統的に使ってきたものですが、「前衛」という言葉には、ある種の誤解――日本共産党が、自分自身を「指導するもの」と、国民を「指導されるもの」と位置づけているかのような誤解――を引きおこしやすい要素がふくまれていました。今回の規約改定は、その種の誤解の根をたつ意義をもつでしょう。
私たちは、日本共産党は、日本社会のなかで、また日本国民の運動のなかで、共産党でなくては担えない重要な役割を担わなければならない、と考えています。しかし、これは、国民に号令したり、自分たちの考えを押しつけたりすることではありません。
「前衛」という概念に「指導性」という概念が含まれているというのは誤解である、という不破氏の言い分の欺瞞性については、ここでは繰り返さないでおこう。共産党自身が、いや何よりも不破氏自身が、何度となく、「前衛」という概念には「階級に対する指導」「政治的指導」「運動に対する指導」ということが含まれていると何度となく言ってきた。だがこのことは、今回はおいておこう。問題なのは、いったい不破氏が、「指導」という言葉をどのように理解しているかである。このインタビューはそれを非常によく示している。不破氏は、「党による指導」という誤解が生じると述べたあと、こう述べている――「しかし、これは、国民に号令したり、自分たちの考えを押しつけたりすることではありません」。不破氏によれば、「指導」とは、「号令したり、自分たちの考えを押しつけ」ることだそうだ。たしかに、そのような「指導」なら、誰も受けたくはない。
この「指導」概念は、まさに、わが党内で実際に行なわれてきたし、現在も行なわれている「指導」の実態とよく合致している。党指導部は、「民主的な討論」を建前としながら、実際には、党員に「号令し」、党指導部の「考えを押しつけ」ている。たとえば、不破政権論についても、「日の丸・君が代」問題での方針転換についても、消費税減税棚上げについても、自衛隊活用論についても、一方的に上層部だけで決定し、その決定を下に「押しつけ」てきた。このような「指導」を、一般の国民が受け入れようとしないのは明らかである。だが、党内で、あいかわらず「号令したり、自分たちの考えを押しつけ」ているような政党が、どうして、国政を担うやいなや、そのような悪習から手を切ることができるというのだろうか?
実際には、政党というものはそもそも、「前衛党」を自認していようがいまいが、政権の獲得を狙う以上、社会および政治の中で何らかの指導的役割を果たすために結成されるのである。諸階級はそれ自体としては、ばらばらの諸個人の集合体である。彼らの階級的ないし政治的諸利害を明確にし、体系化し、それを政治の舞台で実現するためには、そのような諸利害の実現を使命とする政党を結成しなければならない。そしてそのような政党は常に、その階級の中の先進部分、あるいは、その階級の利益を実現しようとするインテリゲンツィア層の先進部分によって結成される。階級は不均質であり、階級の中の全成員が同時に同じ程度に政治的成熟を遂げるわけではない。最初に政治的自覚を持つに至った諸部分が、政党の結成に着手するのである。そして、そのような先進部分は、当然のことながら、同階級内の他の諸部分に対して「指導的」役割を担わないわけにはいかない。そして、その政党が政権を獲得したならば、国家権力というテコを通じて、社会全体に対して指導的政党として登場しないわけにはいかない。
問題は、政治的「指導」という、政党のもつ必然的な機能を言葉の上で否定することではなく、その「指導」の内実と、それを通じて実際に何を行なうか、である。「指導」の内実という点からすれば、ブルジョア政党や改良主義政党と、労働者階級の自己解放を通じた全人民の解放を目指す政党とでは、根本的な相違がある。ブルジョア政党や改良主義政党は、この「指導」と「被指導」との関係を固定化させようとして、愚民政策を行い、自分たちが無謬であり、自分たちの後について行きさえすれば幸福が約束されるのだと国民に対し吹聴する。彼らは、下からの批判を忌み嫌い、自分たちの特権的地位を永続化させようとする。それに対して、労働者階級の自己解放を目指す政党、すなわち社会主義・共産主義政党による「指導」は、本来、このような「指導」の形式と根本的に対立している。社会主義・共産主義政党は、自分たちの指導的役割が単に一時的なものであって、すべての人民がいかなる特定の団体(党や国家を含めて!)による「指導」も必要としないような政治的・倫理的成熟を遂げるよう助力することに自分たちの真の任務があることを自覚している。労働者自身による社会主義革命は、そのような成熟の過程そのものであるとともに、その政治的・経済的前提条件をつくりだすものである。だからこそ、本来の社会主義・共産主義政党は、大衆に対してばかりでなく、党員や支持者に対してすら、党を盲信しないよう、指導部に盲従しないよう、そして自分の頭で考え、批判し、行動するよう、絶えず鼓舞するのである。
こうした観点から見た場合、現在、不破指導部がやっていることは、あらゆる点で、この根本的任務と対立している。不破指導部は、一方では、「国民を指導すると誤解される」という口実で「前衛党」規定をはずしつつ、他方では、党内の制度をいっそう過酷なものにし、一般党員への統制を強め、党員が以前持っていたわずかな諸権利を無慈悲に奪い、『さざ波通信』に批判的投稿をしたという理由だけで、個々の党員を呼び出し、査問にかけ、除籍している。過去を隠蔽し、無謬を気取り、外部からの批判を許さず、転換を転換と認めず、「誤解」や「発展」という言葉でごまかし、労働者を欺いている。
彼らが「指導性」という「誤解」を避けたいのは、マスコミや世論向けにわが党が「柔軟化」したという印象を与えたいからだけではなくて、党による「指導」の内実を問われたくないからである。「指導」という言葉を避けることによって、あるいは、それを連想させる「前衛党」という言葉を規約から削除することによって、彼らが守ろうとしているのは、民衆の自主性でもなければ、党員の自主性でもなく、指導部自身の不可侵の特権と党内権力なのである。