上田耕一郎氏は、同論文の(上)の第2章において、憲法9条誕生に話を進め、その中で次のように述べている。
そして、その[日本国憲法の]画期的内容は、当時の世界の世論と日本国民の世論から、即座に全面的支持を受けた。世界大戦の元凶の一国だった日本軍国主義の凶暴な侵略行為にたいする諸国民の怒りと糾弾、侵略戦争の犯罪行為と戦争中の塗炭の苦しみにたいする日本国民の深い反省は、戦争と戦力を放棄した戦後の日本の新しい出発を、ともに諸手をあげて歓迎した。
ここには、実際の歴史に対するご都合主義的な美化が示されている。この文章を読めば、9条を含めた日本国憲法があたかも日本国民の大多数によって「即座に全面的支持」を受けたかのようである。だが、「日本国民」はけっして、新憲法や9条を「即座に全面的支持」したわけではないし、侵略戦争の犯罪行為をただちに認識したわけでもない。もし本当に、「日本国民」の意識がそこまで高かったとしたら、どうして戦前の侵略戦争を推進した諸政党が、戦後も生き長らえ、政権を担当しつづけたのか? なぜ戦争犯罪者に対する措置がこれほど弱かったのか? なぜ最大の戦争犯罪者である天皇が訴追を免れ、象徴天皇としての地位を保持したのか? なぜ、今なお、70代、80代の戦中世代が最も保守的で、復古主義の温床となりつづけているのか?
さらに、1950年代についての政治的研究は、当時、必ずしも新憲法に対する国民世論の支持が強くなかったことを示している。憲法改正に賛成の意見は、1950年代前半ではまだ5割近く存在した。また、憲法9条改正に反対する世論が5割を越えるのはようやく1957年になってからであり、6割を越えるのは60年安保闘争を経た1962年になってからのことである(渡辺治『政治改革と憲法改正』、青木書店、238~239頁)。つまり、憲法擁護、9条擁護の世論が国民の過半数を越えるようになったのは、「犯罪行為と戦争中の塗炭の苦しみにたいする日本国民の深い反省」といった漠然としたものが理由なのではなく(むしろ、国民多数派の反省度は、ドイツやイタリアのそれと比べても弱かった)、露骨な改憲勢力や反動勢力に対する階級闘争と民主主義運動のおかげなのである。
あたかも日本国民が全体として即座に憲法を「諸手をあげて歓迎した」かのような単純な歴史観が生じるのは、「日本国民」なるものを一枚岩の主体としてとらえる発想があるからである(自由主義史観派の歴史観と相通ずる歴史観)。だが、「日本国民」なる一枚岩の主体など存在しない。それは、階級、ジェンダー、職種ないし職務、政治的アイデンティティ等々の諸階層によって鋭く分岐している。そして現在、新たな改憲策動は、まさに「日本国民」内部における、帝国主義に親和的な諸階層に依拠して台頭しつつある。この危険性とその階層的基盤を直視することが、改憲策動と闘う上で最も重要なことの一つである。