同論文の第3章は、「改憲のねらい」について論じており、そのねらいは集団的自衛権の行使にあるとしている。
今日、「自衛隊の現実にあわせて9条をとりはらいたい」という改憲派の主張は、一般に誤解されているように、憲法の文字を、「戦力」否定から「戦力」肯定に変えるという憲法規定の単純な変更による現実合わせだけをねらったものではない。なぜなら、その問題は、すでにこれまでの解釈改憲論……のすりぬけでおしとおしてきた問題だからである。
今日、改憲派が、これまでの解釈改憲にあきたらず、どうしても明文改憲が必要となったとして要求している問題は、自衛隊の合憲化だけでなく、これまでの解釈では不可能となった米軍とともに武力行使するための集団的自衛権行使の合憲化である。
今日の改憲勢力が、より大っぴらな自衛隊の海外派兵と集団的自衛権行使をめざしていることは疑いないが、しかし、憲法の条文を、「戦力」否定から「戦力」肯定に変えるということは、ここで上田氏が言っているような「憲法規定の単純な変更による現実合わせ」などという水準のものではない。この文書を読むと、上田氏はどうやら、条文上、憲法9条が残っている意義は、政府解釈の言うような集団的自衛権行使を妨げているだけであると考えているようだ。
これは、憲法9条の意義に対する驚くほどの過小評価である。このような過小評価は、共産党が一貫して、憲法9条のもとでも個別的自衛権は否定されていないという立場(政府自民党と同じ立場)をとっていること、1990年代まで一貫して「中立・自衛」政策をとっていたことと深く関連しているし、また、憲法9条を常備軍禁止に矮小化するという最近の立場とも通底している。
日本国憲法は、憲法前文および憲法9条に即してみるなら、次のような2つの根本的な特質を有している。いずれも、常備軍を持つ持たないといった水準をはるかに越えている。
まず第一に、それは、軍事や戦時ないし緊急事態ということを根本的に想定していない世界で唯一の憲法である。すべてのブルジョア立憲体制は、たとえどんな民主主義的な憲法を戴いていようとも、本質的に、平時の法体系と有事の法体系というダブルスタンダードを内包している。平時においてどんなに素晴らしい権利が認められていても、有事においてはそれらはすべて制限ないし否定される。「祖国防衛」が、あらゆる基本的人権の上にそびえたっている。日本国憲法はそのようなブルジョア憲法の本質的制約をもたない唯一のものである。
第二に、それは、力と恐怖の均衡にもとづいて平和を維持しようとするのではなく、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」平和を維持しようとしており、自衛権――個別的であれ集団的であれ――に代えて平和的生存権を根幹に据えた世界で唯一の憲法である。すべてのブルジョア立憲体制は、自分の国の軍隊は常に「防衛的」なものとみなしながら、他国の軍隊はすべて潜在的に「侵略的」なものとみなすというダブルスタンダードを前提している。日本国憲法は、根本的にそのようなダブルスタンダードを排する。平和を脅かすのは何よりも自国の軍隊であること、このことの自覚に日本国憲法はもとづいている。それは、国民の安全というものを一国主義的にではなく、本質的に国際主義的にとらえる。すなわち、侵略者の手を押しとどめようとする全世界の人民の世論と行動に依拠して、自国の平和を守ろうとする。
以上のような特質は、他のどの国の憲法にも存在しない。コスタリカ憲法でさえ、以上のような日本国憲法の特質に照らせば、はるかに普通の国の憲法に近い。コスタリカ憲法と他の国の憲法との差は、いわば「量的」である。つまり、どの程度の軍隊が認められるか、という差にすぎない。それに対し、日本国憲法は、他の国のいっさいの憲法と「質的」に対立している。
したがって、憲法9条の条文を、「戦力」否定から「戦力」肯定に変えることは、たとえ、集団的自衛権が引き続き禁止されていたとしても、それは根本的な変更であり、日本国憲法を他のどの国の憲法からも区別していた決定的な特質が奪い去られることを意味する。「戦力」が肯定されれば、その「戦力」を有効に用いるためのありとあらゆる方策が肯定される。有事立法なしに「戦力」は動かせない。基本的人権を制約することなしに有事立法は存在しえない。祖国防衛を義務とすることなしに、戦力を肯定することはできない。そして、祖国防衛の義務化は、その任務を専門的に果たす特殊な集団(すなわち軍隊)に対する国民的敬意と神聖化なしには、貫徹されない。なぜなら、祖国防衛という義務は、死と隣り合わせの最も危険な義務だからである。
憲法9条の意義に対する上田氏のこうした過小評価こそが、後で触れるような自衛隊活用論の肯定と密接に結びついている。このような付け焼刃の9条護憲論では、とうてい9条を守ることはできないだろう。