この論文では、最近の党幹部の論文の中では珍しく「帝国主義」という言葉が多用されている。これだけ「帝国主義」という言葉を用いるのは、現在の党幹部の中では上田耕一郎氏ぐらいなものであろう。上田氏自身が解説している今回の第22回党大会決議ですら、第1次世界大戦時の列強諸国の歴史的帝国主義を指す言葉としてしか、もはや「帝国主義」という言葉を用いていない。
その意味で、オールド・マルクス主義者としての上田耕一郎氏が、「帝国主義」という言葉をそれなりに用いていることは、評価できる。しかしながら、上田氏がこの論文で想定している帝国主義は、ほとんどもっぱらアメリカの帝国主義だけである。上田氏は、「しかし帝国主義論ぬきの現代戦争論は、すべて俗論にすぎない」(『経済』2月号、91頁)とか、「現代の戦争の主たるものは、帝国主義の国際政治の他の手段による継続なのである」(同)、「今日の戦争は、クラウゼヴィッツの時代以上に、世界の複雑な諸要素とむすびついている。だがその要素のうち決定的なものは帝国主義の国際政治であることを忘れてはならない」(92頁)といった、実にまっとうなことを述べているが、ここで言われている「帝国主義」の中には、日本の帝国主義ないし、帝国主義化しつつある日本資本主義のことはまったく含まれていない。
新しい改憲策動の背景にある集団的自衛権の行使に向けた衝動が語られていても、それは、ただアメリカ帝国主義の戦略との関連でのみ説明されており、日本の独占資本との関連ではまったく議論されていない。ここではただ、ソ連崩壊後のアメリカ支配層の戦略転換のみが主役を演じており、日本資本主義の帝国主義化とそれを背景にした軍事大国化、政治大国化の衝動については、ほぼ完全に無視されている(日本の帝国主義化と新ガイドライン方との関係については、『さざ波通信』第4号の論文「新ガイドライン法の成立と従属帝国主義」上および『さざ波通信』第5号の「新ガイドライン法の成立と従属帝国主義」下を参照のこと)。
このような一面的な見方は、一昨年に成立した周辺事態法(新ガイドライン法)についての解説にも示されている。上田氏は、周辺事態法がいかに危険なものであるかについて、次のように述べている。
周辺事態で米軍が軍事介入し、戦争法が発動されて、[周辺事態法の]第9条にもとづき、民間の船員が米軍の空母などに「輸送」協力を行えば、多数の戦死者が出る危険性がある。その他の協力でも、戦争協力である以上、同じく生命の危険が生まれる。
戦争法とは、一人一人の国民にたいして、戦争参加の拒否か協力かという選択を迫るという、自らの信条、生命と安全にかかわる恐るべき違憲の法律なのである。
以上に述べられている周辺事態法批判は、もちろんまったく正当なものであって、上田氏の平和への情熱を物語っている。われわれはその情熱をいささかも疑わない。しかしながら、ここで考慮されている「生命と安全」は、すべて日本国民にかかわるものであって、この戦争法の発動によって米軍と自衛隊が標的とするであろう他の国の国民の「生命と安全」については、まったく考慮の外に置かれている。それは、言葉としてさえ出てこない。上田氏の平和への熱情は、国境という仕切りの外には出ないようである。
周辺事態法の真の問題点は、それが日本を戦争に巻き込むことだけでなく、それが何よりも、他の国をアメリカによる攻撃戦争の標的にするのをいっそう容易にする点にある。今回の周辺事態法が、ベトナム戦争と湾岸戦争という2つの戦争の教訓から導き出されていることは、つとに指摘されていることである。遠いアジアの国で行なわれたベトナム戦争において、同盟国(日本)の十分な軍事的支援を受けることのなかったアメリカは、戦争の人的負担をほとんど一国で負うことになり、戦争が長期化するとともに、莫大な犠牲者と財政支出を出すことで、結局、撤退することを余儀なくされた。他方、同盟諸国の全面的な軍事的支援を得て行なわれた湾岸戦争は、アメリカの負担をいちじるしく少なくするとともに、戦争を短期で終わらせることができた。遠いアジアの国でも、湾岸戦争並みの同盟国支援を確保することこそ、周辺事態法のもくろむことである。
ところで、このどちらのケースにおいても、標的とされたのは弱小国である(少なくともアメリカや日本に比べれば)。したがって、超大国アメリカを相手にした太平洋戦争時の日本の被害を例に出して周辺事態法の危険性を訴えることは、かなり的外れである。もちろん、その危険性もあるが、より重大なのは、日本が米軍の後方地域支援を担うことで、アメリカ帝国主義の侵略行動をより容易にすること、したがって、他の国を戦争に巻き込むことにある。この点を軽視した一国平和主義的反対論は、今日ますます時代遅れなものになっている。