第22回党大会決議と上田論文

6、自衛隊活用論の苦しい正当化

 さて、長々と大会決議の意義について解説してきた上田耕一郎氏は、いよいよ、大会決議の核心部分たる自衛隊の活用論について説明しはじめる。上田氏はまず、大会の場における自分の発言内容を引用している。われわれもそれを引用しよう。

 新しいアジアの情勢からいって、国際的に承認された中立の日本にたいする外部からの侵略はありえません。しかし、ありえないといっているだけではすまない。国家論としていえば、国の安全保障の方針をとわれたさいに、民主連合政府には理論的政策的回答を用意する責任が課されています。
 この意味で決議案の回答[自衛隊の活用]は、責任ある政党として当然の態度で、国連憲章第51条にも合致しています。

 何という発言だろうか。これまでさんざん、憲法9条の意義について語ってきたにもかかわらず、民主連合政府の安全保障政策という決定的な問題になるやいなや、憲法9条も憲法前文もどこかに行ってしまって、もっぱら政治的基準を国連憲章とその第51条に求めているのである! なるほど、各国の自衛権を承認した国連憲章第51条によるならば、自衛隊の活用は肯定されるだろう。だが、国連憲章にもとづくなら、実際には、集団的自衛権も肯定されるし、自衛隊そのものも日米安保条約もNATOも肯定される。ここで国連憲章を持ち出すことに何の意味もない。問題なのは、国連憲章に合致しているかどうかではなく、日本の憲法に合致しているかどうかである。憲法の擁護を掲げる政党ならば、当然、日本国憲法に即した「安全保障政策」に対する「理論的政策的回答」を用意しなければならない。それが「責任ある政党としての当然の態度」である。
 上田氏は、「国家論としていえば」という意味不明の前置きをして、自衛隊の活用を肯定しているが、まさに「国家論」の根幹をなすのは、憲法論である。国家論を論じながら、憲法を無視して、突然、国連憲章に飛びつくというのはどういうことか? 国連憲章による正当化論は、第22回党大会決議でさえ採用していない危険な論理である。なぜなら、すでに述べたように、国連憲章にもとづくなら、集団的自衛権さえ正当化されるからである。
 しかも、この発言は奇妙なことに、「新しいアジアの情勢からいって、国際的に承認された中立の日本にたいする外部からの侵略はありえません」と断言しているにもかかわらず、侵略された際の「理論的政策的回答」が必要だと述べている。決議でさえ、「ありえない」などと断言してはいなかった。大会での志位報告でも「ほとんどありえません」という表現だった。本当にありえないのなら、回答する必要もない。たとえば、「もし宇宙人が攻めてきたら民主連合政府はどうするのか」などという問いに答える責任などないのと同じである。なぜなら、そんなことは本当にありえないからである。一方で「ありえない」と断言しながら、その「ありえない」ことに対する「理論的政策的回答を用意する責任」を云々することは、有権者と党員を愚弄することである。

 さらに、上田氏は、自衛隊の解消に向かう「第3段階」について、次のように述べている。

 アメリカをはじめ、アジアの近隣諸国との平和・友好の関係が確立され、日本の中立の国際的保障という安定した新たな情勢が生まれれば、日本にたいする外国からの武力攻撃の可能性はありえなくなる。そういう内外情勢の成熟こそが、常備軍の廃止と、それによる軍事費の平和的活用という国民的合意を成立させるうるという具体的な情勢分析であり、それにもとづく根拠ある国民への提言である。

 この上田氏の解説は、決議そのものにおける自衛隊解消の条件よりもいっそう厳しい。決議では、「アジアの平和的安定の情勢が成熟すること」と「憲法9条の完全実施についての国民的合意が成熟すること」の二つが挙げられていた。上田氏はこれを次のような条件に言いかえている。「日本の中立の国際的保障という安定した新たな情勢が生まれ」ること、「日本にたいする外国からの武力攻撃の可能性がありえなくなる」こと、「常備軍の廃止と、それによる軍事費の平和的活用という国民的合意を成立させる」こと、である。「アジアの平和的安定」という決議の文言はより拡張されて、「日本の中立の国際的保障」という言い方になり、さらに「日本にたいする外国からの武力攻撃の可能性はありえなくなる」ことへと拡張されている。決議が事実上言いたかったのはこういうことだと推測されるので、われわれは上田氏の解説を特別に不当なものだと言うつもりはない。だが、いずれにせよ、このような高いハードルを設定することは、80年代の社会党の自衛隊段階解消論からすら後退している。
 どの国の為政者も、自国への武力攻撃の可能性が本当になくなるのであれば、軍隊を廃止してもよいと言うだろう。なぜなら、どの国の軍隊も、建前上は、自衛のためにあるのであって、侵略のためにあるのではないからである。だが、そのような可能性の消失を客観的に証明するものは何もないので、どの国の為政者も、そうしたわずかな「可能性」にしがみついて、自国の軍隊保持を正当化しているのである。「日本にたいする外国からの武力攻撃の可能性がありえなくなる」ことを自衛隊解消の条件にすることは、自衛隊解消を事実上、半永久的に棚上げすることを意味するだけではなく、憲法9条と憲法前文の精神を完全に否定することを意味する。なぜならそれは、「そのような可能性があるかぎり軍隊を保持し、その軍隊の力とそれが呼び起こす恐怖で平和を維持する」と宣言するのと同じだからである。それは結局、武力自衛論に立った議論であり、力と恐怖の均衡による平和維持論である。

 さらに、上田氏は、この論文でしきりに、現代戦争論における帝国主義論の重要性を強調しながら、自衛隊の段階解消政策の話になるやいなや、この帝国主義論はどこかに消失してしまう。アメリカ帝国主義が存在しつづけているにもかかわらず、「新しいアジアの情勢からいって、国際的に承認された中立の日本にたいする外部からの侵略はありえません」と言ってみたり、「日本にたいする外国からの武力攻撃の可能性はありえなくなる」などと言うことは、まさに、上田氏自身が厳しく戒めていたはずの「俗流戦争論」に陥ることを意味する。上田氏は、すでに引用した文章でこう言っていた。

しかし帝国主義論ぬきの現代戦争論は、すべて俗論にすぎない。
現代の戦争の主たるものは、帝国主義の国際政治の他の手段による継続なのである。
今日の戦争は、クラウゼヴィッツの時代以上に、世界の複雑な諸要素とむすびついている。だがその要素のうち決定的なものは帝国主義の国際政治であることを忘れてはならない。

 以上の命題が正しいとするなら、日本に対する武力攻撃がありうるかいなかは、日本が中立を宣告しているかどうかとか、平和外交に努力しているかどうかだけで決定される問題ではない、ということになろう。日本に対する武力攻撃がありえないことを証明するためには、まさに現代帝国主義(とくにアメリカ帝国主義)の国際政治がそのような侵略を必要としなくなったことを証明しなければならない。しかし、上田氏は、この章で、そのような証明をまったくしていない。前半における帝国主義論はいったい何だったのか?

 以上のことから明らかになるのは、今回の第22回党大会決議における自衛隊活用論と自衛隊段階解消論が、憲法9条論からも帝国主義論からもまったく正当化もされず、それらの議論とはまったく無関係な論理から無理やりひねり出されているという事実である。このことはすでに、過去の『さざ波通信』で指摘してきた点である(たとえば、第17号の論文「岐路に立つ日本共産党」の第1章(4))。今回の上田耕一郎氏の「理論的」論文の功績は、この事実をなおいっそう赤裸々な形で露呈したことにある。

2001/3/28~29 (S・T)

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