まずもって、市田書記局長のコメントの論理構造について簡単に分析しておきたい。
市田書記局長は、すでに引用したように、「どこの家庭でも新しい生命が誕生することはめでたいことである」あるいは「喜ばしくめでたいことである」と述べている。これは、「どこの家庭でも新しい生命が誕生することはめでたいことである」から、「天皇家でも新しい生命が誕生することはめでたいことである」という論理構造になっている。後半部分は明示的に言われていないが、暗黙に意味していることはそういうことだろう。これは、意識的に、一般家庭と天皇家とを同一視することによって、天皇一族の妊娠(しかも、「長男の嫁」の妊娠)の持つ特別な意味を薄めようとしているのだろう。つまり、その主観的意図は天皇一家のことがらを特別扱いしないようにしよう、というものである。これは、他の政党が、他ならぬ天皇家で後継ぎになりうる存在が生まれる(まだ妊娠段階だが)ことを特別にめでたいこととみなす、前近代的、家父長的、身分差別的、天皇制礼賛的発想に比べれば、格段にましである。この点では、他のブルジョア政党と同じく、特別な喜びを表明した社民党も、まともな近代政党としては失格であり、この党にいかなる幻想も抱いてはならない101番目の理由である。
しかし、その主観的意図は、共産党が天皇家の妊娠についてわざわざコメントを出したということで、すでに裏切られている。本当に一般家庭と同じなら、わざわざコメントを出すまでもない。たしかに雅子は有名人だが、共産党がいちいち有名人の妊娠についてコメントを出すことは考えられない。
だが問題はそれにとどまらない。先に示した論理構造、すなわち、「どこの家庭でも新しい生命が誕生することはめでたいことである」→「天皇家でも新しい生命が誕生することはめでたいことである」という論理構造は、3つの重大な問題を含んでいる。1、そもそも「どこの家庭でも新しい生命が誕生することはめでたいことである」という一般的命題が成り立つのかどうか、2、一般家庭と天皇家とをそもそも同一視することが許されるか、3、「天皇家でも新しい生命が誕生することはめでたいことである」という命題が成り立つかどうか。以上の3つの点について、それぞれ検討しよう。