まず第1の問題、「どこの家庭でも新しい生命が誕生することはめでたいことである」という命題が一般的に成り立つかどうか考えてみよう。もちろん、このような命題が成立しないのは言うまでもない。中絶の権利をめざして世界中の女性たちは何十年、何百年と死に物狂いの戦いを行なってきたし、今でも行なっている。女性たちはまさに、「どこの家庭でも新しい生命が誕生することはめでたいことである」という至上命題のもと、子どもを産むことを陰に陽に強要されてきた。さらに、現代社会できわめて深刻な問題となっている児童虐待は、「どこの家庭でも新しい生命が誕生することはめでたいことである」などと安易に口にすることを許さない深刻な事実があることを教えている。
このように書けば、それは挙げ足取りであると感じる人もいるだろう。もちろん、「どこの家庭でも新しい生命が誕生することはめでたいことである」というセリフを誰かが何気なく語ったからといって、それでもってその人を糾弾したり、論難しようとするのはナンセンスである。また、日常生活の場面で、友人や知り合いの家庭で子どもができたときに、それに祝福を与えるつもりでその種のことを言ったからといって、別に何の問題もない。しかしながら、天皇家の妊娠に祝福を与える目的で、公党の責任者が口にしたセリフとなれば別問題である。
この社会においては、不幸なことに、「どこの家庭でも新しい生命が誕生することはめでたいことである」と言うにはほど遠い状況にある。ある意味で、そう言えるようになるためには、全般的な革命が必要なのである。共産党の歴史的使命は、まさに、「どこの家庭でも新しい生命が誕生することはめでたいことである」と言えるような状況を全世界的につくり出すことであると言っても過言ではない。すべての女性が望まぬ妊娠をしなくてもいい世界、いかなる意味でも妊娠・出産を強制されない社会、妊娠や出産や子育てが個人的な重荷にならない社会、すべての子どもが望まれてこの世に生まれてこれる社会、子どもがいかなる虐待やいじめからも免れている社会、子どものみならずすべての人々が人間としての尊厳を守られる社会、このような社会と現在の日本社会とは、天と地ほどの差もある。そして、現在の新自由主義政策(小泉政権はその旗頭である)のもとで、なおこの過酷さは増そうとしている。出生率は年々急速に下がっているが、それも無理はない。多くの女性がこのような社会の中で子どもを産みたいとは思っていない。子育てのみならず、老人介護までも、個々の家庭の女性の手に押しつけようとしている保守政権および保守野党には、どんな家庭だろうと、「新しい生命の誕生」を祝福する資格などない。子どもにとっても女性にとっても過酷な状況を全社会的につくり上げながら、他方で出産を奨励しようとする姿勢ほど、おぞましいものはない。
雅子の妊娠騒動の中で出された各界の祝福のメッセ―ジの中に、これによって少子化に歯止めがかかるかもしれないなどという無責任なコメントも見られたが、これは信じられないほど恥知らずなコメントである。奇妙なことに、このようなコメントを吐いた有名人は、畏れ多くも雅子を「出産ロボット」のロールモデルにしようとしているのである。これは、何が何でも妊娠せよ、妊娠したら何が何でも出産せよ、という暴力的メッセージである。共産党は、このような風潮に『しんぶん赤旗』を使って反撃のキャンペーンを展開するべきであった。それは、反天皇制という見地からだけでなく、女性の権利、一般的民主主義という観点からさえ可能であった。だが、共産党指導部は、「どこの家庭でも新しい生命が誕生することはめでたいことである」という一般的命題でお茶をにごし、そうした風潮の一翼を担ってしまったのである。