すでに述べたように、市田コメントは、意識的に一般家庭と天皇家とを同一視することによって、せめて天皇家の特別扱いを薄めようとしている。しかしながら、この戦術の最大の欠点は、すでに特別にコメントを出すことによって破綻しているという点にあるだけでなく、同一視できないものを同一視するすることによって、天皇制度の本質的問題点を回避してしまう点にもある。
どのように言おうとも、一般家庭と天皇家とは同一ではない。天皇は、日本国憲法において、「国民主権の象徴」としての公的地位を与えられているが、その政治的機能は、主権在民原則の全面的発現を上から制約し、復古主義、帝国主義の政治的・イデオロギー的武器となることにある。天皇一家の生活は全面的に税金によってまかなわれ、彼らには一般国民が持っている権利も義務もない。彼らはそれ自体が公的な存在である。しかも、この公的な地位は、選挙による選出あるいは、選挙で選出されたものによる任命という民主主義の原理にもとづいてではなく、完全に「血統」という封建的原理にもとづいて成立しており、しかもその「血統」の後継者は生物学的な意味での男性に限定されている。この「血統主義」と「男性主義」は、いかなる点でも、民主主義の原理とあいいれない。
この根本的に違う両者を同列に並べることは、天皇制度の持つ本質的反動性に目をふさぐことになる。しかも、この間の雅子妊娠騒動は、単なる一有名人の妊娠騒動と本質的に異なる意味を持っている。それは、まさに、天皇家を特別に優れた存在、主権者たる一般民衆よりも上にある存在とみなすことを目的としているだけでなく、主権在民原則を掘りくずし、現在急速に進められている帝国主義化政策にとってのイデオロギー的支柱をつくりだそうとしているのである。このことに目を閉じることはできない。
また、次男の嫁ではなく、長男の嫁の妊娠がここまで騒がれるのは、血統的に「正しい」後継ぎが生まれることへの期待感があるからである。そこで想定されている「正しさ」とは、第1に、それが長男夫婦の子供であること(長子主義)、第2に、今度こそ「男の子」である可能性があること(男性主義)、である。いずれも、現代民主主義の見地からすれば絶対に許されない、家父長主義的、男性至上主義的態度である。
したがって、天皇制の政治的機能の観点からしても、現代民主主義の見地からしても、一般家庭と天皇家とを同一視して、十把ひとからげに祝福を与えるようなことをしてはならないのである。