都議選の結果と参院選の展望(座談会)

5、参院選の展望(1)

 それでは次に、今回の都議選の結果を踏まえて参院選の展望について、それぞれお願いします。

 今回の大敗を招いた主要な原因――小泉人気、共産党指導部の右傾化路線――が、参院選までの1ヶ月間になくなるとはとうてい考えられないので、参院選も非常に厳しいものになるだろう。とりわけ、参院選の場合は、社民党も新社会党もライバルとなる。今回の都議選では、新社会党の候補者はゼロ、社民党の候補者はたったの6人だけだった。参院選では、どちらも選択肢に入る。現在の右傾化路線が続くかぎり、共産党にとっては、都議選以上に厳しいものになるだろう。さらに、今回の参院選は、個人の獲得票を政党の票に横流しできるシステムになっている。各党は有名人あさりに躍起になっており、マスコミの報道(とりわけテレビ)も、そうした有名人の動向や人気度をめぐるものにすっかりシフトしてしまっている。「小泉か巨泉か」みたいな浅薄な報道合戦は、本来の焦点をますますぼかしてしまうだろう。ちなみに、巨泉は基本的に新自由主義者だと思うので、この対立はなおさら不毛だ。

 私もやはり非常に厳しいと思う。流れも風も、そう簡単に変わるわけではない。小泉政権の推し進める「構造改革」の本当の正体が示されるのは、まだもっと先だ。今はまだ、「痛みを伴っても改革を」といったマスコミや評論家たちの無責任な言動に多くの人々がだまされている。けっして痛みをこうむらないような連中が「痛み」を吹聴し、それを信じた庶民がその「痛み」のいっさいを引き受けることになる。そのことがわかるのは、参院選の先だろう。

 共産党の路線もそう簡単には変わらない。変わるためには、まず何よりも、なにゆえ敗北したのかの率直な分析が必要であり、情報公開が必要だ。しかし、今の共産党指導部はそれと正反対のことをしている。都道府県委員長会議における不破議長の報告すら発表する勇気がない。敗因の率直な分析と討論、指導部の責任の追及、こういったものがなければ、政党はしだいに腐っていってしまう。

 投稿の中に、指導部を変えてもあまり意味がないのではないか、という主張があったが。

 不破=志位指導部に変わる何か立派な指導部候補がすでに揃っているというわけではない、というのはその通りだ。指導部を変えたからといって突然、党がよくなるという話でもない。もし本当にそう考えているのだとしたら、それは指導部がすべてを決定するという誤った指導部崇拝に陥っていることを意味する。しかしだからといって、指導部の交替を要求しなくていいという話にはならない。現在の内閣が大失政をすれば、われわれは内閣の退陣を要求する。それに代わる内閣が同じようにろくでもなくても、それにもかかわらずその時々における失政の責任を追及しなければ、民主主義は成り立たない。同じことは共産党内部の民主主義についても言える。指導部の主体的責任を追及し、その更迭を要求するのは、指導部が変わればすべてよしと考えているからではなく、その過程そのものが下からの民主主義を育て、民主主義を機能させる重要な契機になるからだ。

 私個人としては、今の常任幹部会を見るかぎり、あまり変わり映えのしない指導部しか出てきそうにないので、あまり指導部更迭という意見には今のところ賛成ではない。ただ、責任は追及する必要があると思っている。とはいえ、指導部、あるいは党首というものがいかに独自の意味を持っているかは、小泉内閣の登場によって逆に非常にはっきりと示されたように思う。森総裁の時には、自民党は完全に落ち目だった。自民党支持者からも見放されていて、あのまま選挙に突入していたら、自民党は惨敗していただろう。ところが、総裁が小泉に代わっただけで、すべてが一変した。このような変化の激しさは、それ自体として、多くの有識者が憂慮するように、危険なポピュリズムの要素がある。とはいえ、やはり、大衆民主主義の時代においては、党首の魅力というものが、党全体の命運を左右する大きな独自要因なのだ。そのことを左翼自身ももっと考える必要がある。

 小泉の個人人気の背景には、小泉のビジュアルのよさ(小渕、森と比べて)、そのパフォーマンスの派手さ、はっきりとものを言う姿勢、予想外のことをしそうなおもしろさ、といったワイドショー的要素だけではなく、その選出の過程にもある。つまり、党内における総裁選挙を経ているということ、しかも、国会議員の派閥票ではなく、下からの地方票に支えられて、橋本派の多数派分派に抗して総裁になったという事情にも大いに負っている。その「民主主義」は実際はかなり怪しげなものだが、それでも他の政党の党首選出過程に比べればはるかに透明で民主主義的なものだった。ひるがえって共産党を見ると、共産党のトップは、それ以前のトップの鶴の一声で決まる。若き不破を書記局長に大抜擢したのは、当時の最高指導者であった宮本顕治の鶴の一声だし、志位を書記局長にしたのは、同じく宮本議長の鶴の一声だ。そして、そうやって決まった不破と志位が現在ではそれぞれ、議長と委員長になっている。昨年の第22回党大会で新三役が決まったが、その過程はまったくの密室人事で、ごく内輪の人事小委員会の中で決定されたものだ。全党員が、大会の最終日になるまで、誰が三役になるのかさえまったく知らなかった。そして突然、これが新しい書記局長です、と上から提示される。書記局長になるまで志位などはまったく無名だったし、今回の市田にいたってはなおさらだ。そのような指導者にどうして魅力をおぼえろというのか?

 党首の魅力という点で言えば、今回の共産党のCMは非常に不評だったが。

 あれは、作り方が下手かうまいかという技術的な要素だけでなく、発想そのものに、現在の共産党指導部の姿勢が露骨に示されていて、不評だったのだと思う。共産党指導部は口では「国民が主人公の政治」というが、実際には大衆を蔑視しているのではないか、上から見下ろしているのではないか、という疑いを持って見られていた。そのような「疑い」があのCMではっきりと裏づけられたというのが、一般の視聴者の受け止めではないか? ああいうCMが、党の上層で問題視されず、そのまま通ったという事実そのものに、指導部の病状の深刻さを感じないわけにはいかない。

 私個人の意見を言えば、CMの作り方がどうであれ、志位委員長自身の個人的魅力の乏しさからして、党首中心のCMはあまり受けないと思うが。いずれにせよ、現在の指導部の路線のもとでは、新しい飛躍はありえないだろう。共産党は、社会党の崩壊で得た貯金を、98年参院選以後の3年間でもう使い切ってしまった。残ったのは、社会党崩壊以前の共産党の陣地だけだ。これは、小泉改革という歴史的荒波に立ち向かう船としてはあまりにも小さい。

 その中でも、この小さな船を守る必要があるだろうが、たしかに船頭さんが今のままでは、心もとない。

 現指導部の交替に賛成でない党員も、少なくとも都議選敗北の責任を追及し、誠実な自己分析と自己批判を要求するべきだろう。そうしないかぎり、参院選は絶対に勝てないし、その後も不安定なままだろう。数字のマジック(「総選挙比例得票率よりも増えた」論)で党員を鼓舞するだけでは、とてもじゃないが参院選は乗り切れない。

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