小泉内閣の本質と2中総の評価

1、小泉人気をどう見るか

 小泉内閣をめぐって解明されるべき論点として考えられるのは、おおむね次の3つだろう。(1)この異常人気をどう見るか、(2)小泉内閣そのものをどう見るか、(3)小泉内閣に対してどのように立ち向かっていくのか。それぞれの論点について2中総の回答を見てみよう。

 まず、(1)の論点について、志位委員長は次のように述べている。

 小泉氏は、「いまの自民党ではだめ」「自民党を変える」といって、党総裁になり、首相になりました。いまの高い支持率は、そのことへの期待にほかなりません。それは全体として、「いまの政治を変えたい」という願いとむすびついた流れであります。模索しながらも、新しい政治をもとめる、前向きの積極的な力をもっています。

 ここでは、小泉内閣に対する以上に高い人気は「新しい政治をもとめる、前向きの積極的な力」として総括されている。だが、小泉人気はけっしてそのような「前向きの積極的な力」として評価しえない危険性を帯びている。
 まずもって、小泉人気を支える世論は一枚岩ではない。本号所収の座談会でも指摘されているが、社会の上層と中下層とでは、小泉に対する期待の内実には大きな差がある。中層の一部を巻き込んでの上層の基本的な期待は、新自由主義系の大手マスコミの論調に典型的に示されているように、真に本格的な新自由主義政権ができたことに対する期待であり、本気で、弱者擁護的な旧来の利益政治構造を打破し、競争と市場にもとづく弱肉強食の社会をつくってくれる、豊かな者がもっと豊かになれる社会をつくってくれるという期待である。これはまさに、1980年代におけるレーガン政権を支えた「アンガー・ホワイト」と共通するものであり、露骨であからさまな階層政治を求めるものである。このような「期待」のうちには、「前向きの積極的な力」などどこにもない。
 また、中下層においては、一つには、マスコミによる影響、もう一つには、あまりに長引く不況による苛立ち、あまりにひどい森首相に対する徹底的な絶望、いや政党政治そのものに対する幻滅とがないまぜになって、その絶望感のはけ口を、何かやってくれそうなポピュリズム政治家にはけ口を求めたことにある。これは、表面的には、ナチスに拍手喝采した1930年代の絶望せるドイツ国民の心境と多少似てなくもないが、もちろん、今の状況はファシズムの到来を云々できるようなものではまったくないし、小泉もファシストと似ても似つかない。歴史は繰り返さない。現在、問題になっているのは、ファシズムの到来ではなく、本格的な新自由主義政策の実行と本格的な帝国主義国家としての「離陸」である。いずれの政策も、権威主義的なブルジョア民主主義の枠内で達成可能である。とはいえ、この絶望感のはけ口を小泉に見出したことは、それ自体としては、「前向きの積極的な力」として安直に評価することのできないものである。
 1993年の政変の時も、細川内閣に対する圧倒的な国民的支持は、小選挙区制度の導入という最悪の結果を招き、社会党の歴史的崩壊を招来した。現在の「小泉政変」は、形式的には、96年の橋本内閣の「構造改革」路線の継続だが、歴史的には、この93年政変の継続、しかも新しい段階での継続である。必要なのは、小泉人気を支えている力に対する幻想を掻き立てることではなく、「流れに抗して」泳ぐ覚悟とその能力を鍛えることである。

←前のページ もくじ 次のページ→

このページの先頭へ