司会 もう一つ、今回の敗北の構造的要因の方にも目を向ける必要があると思います。ざっと思いつくだけでもいくつか考えられます。1つ目は、1998年の参院選以来の不破=志位指導部の基本的な路線の問題です。2つ目は、共産党の組織の弱体化、高齢化の問題です。3つ目は、日本社会そのものの構造の変容、とりわけわれわれが一貫して日本の帝国主義化と階層分化という文脈で理解してきた流れです。以上の点およびそれ以外の点について何かあれば。
B 1つ目の不破指導部の基本路線に関しては、詳しくは、別の論文でも展開されているので、ここでは詳しく論じませんが、これと関連して、少し気になったことを言います。それは、参院選直後の常幹声明で、小泉ブームのことを何度も何度も「突風」と表現していることです。というのは、この言葉は2つのことを含意していて、1つは、今回のブームがいわば主体的要素とまったく関係のない自然現象のようなものであるということ、第2には、それは一瞬の風でしかないということです。どちらも一面的なとらえ方のように思います。政治のような高度に能動的な世界においては、客観的なものというのは、自然現象のようなものではなく、過去のさまざまな主体的選択の蓄積であるはずです。それに、たとえ自然現象のようなものだと認めたとしても、それに対する「備え」の程度によって、天災は人災にもなります。その点で、はたして共産党が、小泉旋風に代表されるような流れに対する十分なイデオロギー・政治的的備えができていたかどうか疑問です。
その点に関して常幹声明では、「どんな政治的突風がふいても、それにたちむかって前進できる量・質ともに強大な党をつくることの重要性を、痛感しています」と述べています。ここでは問題は、小泉旋風のような強力な流れに対する備えとしては、強固な組織のことしか言われていません。それも重要ですが、それ以上に重要なのは、政治的な備えです。『さざ波通信』でも再三再四指摘されていますが、98年参院選以来、わが党では、ずっと民主党を含めた野党の連合政権ないし野党戦線の構築ということが政治的焦点にされてきました。民主党は、言うまでもなく、自民党政治を新自由主義の方向から改革しようとする政党です。この政治教育は98年以来、小泉政権が成立するまで、2年半以上にわたって続きましたし、それによって、政治の対決軸がすっかりボケてしまったと思います。小泉政権が成立してからは、共産党もようやく新自由主義政策に対する全面的な対決姿勢を示しましたが、他方では、同じような政権である石原都政には「是々非々」でのぞみました。それによって、結局、革新系有権者の周辺部分には、共産党が基本的には何を問題にしているのかが見えにくくなったのではないでしょうか。
この点に関しては、都議選の結果をめぐる座談会でも指摘されていたように、98年以来、共産党の政策がぶれることなく、一貫して新自由主義政策(と帝国主義政策)こそが主敵であるということを倦まずたゆまず宣伝していたとしたら、やはり小泉旋風に対する政治的・イデオロギー的備えはもっと強固だったと思います。もちろん、その場合でも、あれほどのマスコミの大宣伝によってバックアップされた小泉ブームの悪影響を受けたでしょうし、一定の後退は余儀なくされたでしょうが、少なくとも他の野党に比べて減少の度合いが少なくてすんだのではないかと思います。深刻なのは、共産党が、他の野党以上に減らしたという事実です。
A 2つめの党組織の弱体化と高齢化の問題についてですが、この選挙戦の間に痛感したことがあります。それは、党組織だけではなくて、共産党支持者層自体が高齢化しているということです。支持拡大の電話で反応がいいんですが、「投票所まで歩いていけない」という声も多かったんです。新自由主義改革によって真っ先にしわ寄せがくるのがこの層だと思うんですが、政治的な反発力が弱い。政治的な力になりにくいという点では、たとえばこの間、投稿欄にちょくちょく出てくるホームレス問題もそうです。新自由主義によって切り捨てられる層というのが、そもそも政治から切り捨てられている、それをどうやって政治に反映させていくのかが共産党の課題でもあると思います。
また3つ目の日本社会そのものの構造の変容については、構造そのものの変容は継続して進んでいるのだろうと思いますが、現代の日本で問題なのは、その変容にどれだけ国民の意識が対応しているのか、ついていってるのかだと思います。今回の選挙で階層を意識した小泉内閣が大勝利したことからみても、国民のレベルでも階層の意識が分化はじめているだろうし、それは今後ますます進むのではないでしょうか。
あと、「自民党の躍進について」のところで述べたのですが、自民党勝利の背景にはそれなりのイデオロギー状況が作り出されている。作り出された支配イデオロギーに対する共産党(「しんぶん赤旗」)側の反撃・闘争というのが非常に弱い。警戒心さえもないのではないか、と思われるくらいです。その点をもっと党中央に強化してもらいたいし、知識人党員にももっとがんばってほしいところです。
C そのイデオロギー闘争に関してですが、『しんぶん赤旗』ではこの数年ほど、まったく渡辺治氏が登場しなくなりました。本の広告は載っていますが、インタビューとか座談会とかはまったく載らなくなりました。以前は、新年の企画として毎年のように渡辺氏と上田耕一郎氏などとの座談会が赤旗に掲載されたものですが。小泉改革が問題になったときなども、本来は赤旗が真っ先に渡辺氏にインタビューをするべきなのに、それもありませんでした。その代わり、最近では、非共産党系のメディアが熱心に渡辺氏に意見を求めています。私の知るかぎりでは、『労働情報』や『ふぇみん』などです。結局、小泉改革に対決するといっても、赤旗を読むかぎりでは、このような改革が出てきている歴史的背景やそれとの対決点の基軸は何かという最も重要なことがわからないので、その点でも、赤旗のイデオロギー闘争は弱かったと思います。赤旗および党幹部の小泉改革批判は、結局、古い自民党政治と同じというものであり、これではとうてい小泉改革の実態を捉えたことにもならないし、なぜそれがこれほど国民を強く捉えたのかも理解することができません。マスコミの煽りで作り出された単なる「突風」、不幸な偶然という認識にしかなりません。
司会 3つ目の社会全体の構造変化について他に何かありませんか。
B 帝国主義化と階層分化のうち後者についてなんですけど、たしかに社会の階層分化が進んでいるのは事実ですが、それを政治意識という面から見ると、一種の「不均等発展」の現象が見られます。どういうことかというと、いわゆる都市市民上層の部分の政治的意識分化は、マスコミや評論家の助けもあって大いに発展しており、彼らは非常に自覚的に投票行動をしていますが、他方、この改革で「痛み」を受ける部分である中下層部分に関して言うと、自分たちの階層的利害というものが非常に不十分にしか自覚されていません。福祉切捨てなどに対する反発から共産党に投票することはあっても、今度のような「構造改革」が前面に押し出されてくると、たちまち投票行動にブレが生じるのです。今回、選挙前の一般有権者に対するインタビューやアンケートなどを見て目立つのは、「構造改革は必要だし、それを支持するが、痛みのことが心配だ。それへの配慮をしてほしい」みたいな意見です。つまり、あたかも、小泉流「構造改革」というものが特定の階層の利害にもとづいていないかのように考えられており、「痛み」を和らげ避けることのできるような「構造改革」があるかのごとくなんです。「構造改革」なるものが、社会全体あるいは国民全体にとって必要なものなのではさらさらなくて、この「社会の上から3分の1」あるいはせいぜい「5分の1」程度の上層階層と多国籍大企業の利益にもとづいているということ、中下層の犠牲にもとづいて上層が潤う政策にすぎないのだということが、おそらくはまったく理解されていません。
その主な原因は、1つには、新自由主義派による攻撃の主なターゲットの一つが、自民党流の国民統合政治(無駄な公共事業、官僚的規制、補助金行政、等々)であることによって、新自由主義政策の階層的性格が巧みに隠蔽されていること、2つには、革新勢力の側も、この自民党流国民統合政治を批判してきたこともあって、新自由主義政策の階層的本質が十分に理解されず、既存の自民党政治の延長だと錯誤されていること、3つ目には、あまりにも長引く不況のせいで、何であれ今の状態が大きく変わることに対する希望をもたらしていること、です。
司会 帝国主義化についてはどうでしょうか。小泉政権を支持した部分の中には、いわゆる新自由主義的観点からだけでなく、ナショナリズムの観点から支持した人々もかなりいたはずです。この点では石原支持派とも重なっています。小泉は、構造改革を訴える一方で、集団的自衛権を吹聴し、改憲と有事立法に意欲を見せ、中曽根以来となる靖国神社への公式参拝に並々ならぬ執念を見せています。こうした姿勢を支持して小泉に投票した部分も軽視することはできないと思われます。
B この点は2つの意味で重要な要因だと思います。1つには、帝国主義化が社会全体に及ぼす一般的影響という意味であり、有権者のあいだで、護憲・革新的な価値観(とりわけ9条擁護)に対する支持を掘りくずす傾向にあるということです。世界的な経済大国となった日本にふさわしい国際的な発言力や軍事力をもつのは当然であり、中国や韓国などになめられてはいけない、という発想です。そうした傾向は、『さざ波通信』への投稿の中にもしばしば見られます。
2つ目には、必ずしも新自由主義政策によって恩恵を受けない部分に、ナショナリズムがある種の心理的代償を与えるという特殊な意味においてです。社会の下層でありながら、あるいは下層であるがゆえに、多民族を蔑視し、貶めることによって、心理的代償を得ようとする部分も出てきます。また実際、底辺部分では、外国人労働者との競争がすでに始まっています。こうした底辺部分は本来は、革新政党によってその利害を代表されるべきなのですが、ナショナリズムという回路を通して、支配政党へと連結してしまうのです。そして、新自由主義政策が行なわれれば行なわれるほど、ますますそのような「怒れる下層」が増大し、それがナショナリズムの回路を通じて、支配層のための突撃部隊を構成する可能性もあります。それが最も大規模なものになったのが、ドイツ・ファシズムです。現在はそこまで行かなくとも、その小規模な再現をもたらす可能性は十分にあります。