数十年にわたって日本共産党の最高指導者として君臨してきた宮本顕治氏が指導から完全に引退し、不破哲三氏が名実ともに最高指導者となったのは1997年の第21回党大会においてである。不破委員長、志位書記局長の体制自体は、それ以前と変わらないが、宮本氏の引退によって、その実質的意味は大きく変化した。不破=志位指導部は、しかしながら、発足からしばらくのあいだは、なお慎重な手探り状態にあった。彼らは、それ以前の路線をしばらくのあいだは踏襲し、独自色を打ち出すことはまだ控えていた。そうした傾向が変わり始めるのは、1998年に入ってからである。98年初頭の段階ではまだ「総与党化批判」「唯一革新」のキャッチフレーズが生きていたが、しだいに民主党への態度を軟化させ始める。だが、この新路線はこの段階ではまだ萌芽的であった。この新路線が全面的な開花を始めるのは、やはり、1998年7月の参院選における共産党の大躍進である。開票当日の時点ですでに不破委員長は、政権交代への意欲を見せ、首相指名選挙での菅直人への投票もありうるという立場を表明した。それ以降の経過については、すでにこれまでの『さざ波通信』で詳しく論じている。
ここで言いたいのは、不破=志位指導部がその独自色を明確に発揮しはじめた1998年参院選以降からの3年間で、90年代後半に獲得した陣地のほとんどすべてを失ったという厳然たる事実である。この3年間の敗北の程度は、まさに50年問題以来の大規模なものであった。これは、不破=志位指導部の、ある一時期の路線が誤っていたという問題ではなく、不破=志位指導部の傾向、その特質、その本質的姿勢そのものが、この3年間で明確な審判を下されたということなのである。
不破=志位指導部は、宮本時代におけるような地道な党建設、教育立党主義による「陣地戦」戦略をとるのではなく、かといって大衆運動の重視、国際連帯の発揚、左翼勢力との共同と対話の推進、柔軟性と原則性の創造的結合という路線をとるのでもなく、右傾化した世論とマスコミに追随し、基本政策をなし崩し的に現状維持的なものに改変し、規約を改悪して旧来の革命的性格を徹底的に薄めつつ権威主義的・専制的支配は強化し、大衆闘争やイデオロギー闘争を軽視して活動を選挙闘争に流し込むという路線をとってきた。
だが問題は以上にとどまらない。たとえこの3年間、誤った指導路線をとりつづけたとしても、その破綻が明らかになった今日、深刻で真摯な自己批判を行ない、民主主義的な党内討論を組織し、その討論にもとづいて基本路線の誠実な転換(今度は左への)が成し遂げられるのなら、そのような誤りも致命的なものであるとは言えないだろう。しかし、本号の「雑録―1」でも明らかにしているように、指導部は選挙直後の常幹声明で自らの責任をいっさい認めることもなく、陳謝の言葉さえない。また、直後の志位氏委員長の記者会見では、これまでの路線や政策にまったく誤りはないと強弁されている。ここには、政党指導者としての最低限の責任も誠実さもない。それは、指導部としての正当性そのものがもはや破綻していると言わざるをえない。
たしかに、これまでと同様、事実の力に押されて、なし崩し的に左傾化したり、野党連合政権論をこっそり奥にしまったりということはありうるし、あるいは、きわめて二次的な問題で反省のポーズをとることもあるだろう。そして実際、すでにそのような「なし崩し」的でおずおずとした転換は始まっている。しかし、そのような「なし崩し」路線は、共産党員の士気をますます挫くだけである。指導や路線に誤りはなかったと強弁すればするほど、末端の党員たちは無力感にとらわれるだろう。士気の阻喪は、敗北そのものよりも重大なマイナス効果を与える。われわれはそろそろ、今の指導部にノーの声を突きつけるべきである。破綻したのは、あれこれの政策やあれこれの方針ではなく、不破=志位指導部そのものであることを直視すべきである。
今回の敗北は、小泉旋風のせいであって、党指導部の責任ではない、という意見も聞かれる。われわれはそうした意見は一面的であると考えているが、しかし、百歩譲ってそれを認めたとしても、これほどの大敗北を喫した指導部が、自らの責任のいっさいに頬かむりしていいということになるであろうか。少なくとも、全党討論を組織し、全党の英知を結集する最大限の努力をするべきではないのか。ただちに、『しんぶん赤旗』に特別討論欄を開いて、忌憚のない意見を全党から募るべきなのではなかろうか。そのような徴候はいったいどこにあるのか? どこにもない。ここにも、もはや現在の党指導部が、政党指導者としての最低限の責任やモラルを持っていないこと、したがってその正当性をもはや失っていることが示されているのではないだろうか。