3中総の批判的検討
 ――敗北の教訓は本当に汲みとられたか

1、テロ根絶と戦争根絶

 まず、志位報告は、「テロ行為」について、次のような一般的規定を与えている。

 第一に、テロ行為は、いかなる宗教的信条、政治的見解によっても、絶対に正当化することができない卑劣な犯罪行為であるということです。そして、その根絶は、二十一世紀に人類がこの地球上で平和に生きていくうえで、一つの根本条件というべき、重大な意義をもつものとなっているということです。

 テロリズムが正当化できない卑劣な犯罪行為であるというのは、その通りであろう。だが、この規定には、テロリズムに対するマルクス主義的批判はどこにもない。また、反体制勢力が国家権力に対して行なう「反国家テロリズム」と、国家権力の側が反対勢力を一掃するために行なう「国家テロリズム」とのあいだの区別がまったくなされていないし、また対象を前者に絞っているとしても、今回のような、多数の一般人を標的にする「無差別テロ」と、秘密結社ないし個人が政府要人を狙う古典的な「個人的テロ」とのあいだの区別もなされていない。
 このようなきわめて大雑把なテロ規定にもとづいて、志位委員長は、「その根絶は、二十一世紀に人類がこの地球上で平和に生きていくうえで、一つの根本条件というべき、重大な意義をもつものとなっている」という認識を示しているのである。いったいいつから、「テロの根絶」は、そのような「重大な意義をもつもの」になったのか? あの世界貿易センタービルに対するテロ以前からそうであったのか? それとも、あの事件以降そうなったのか? 志位氏は残念ながら語ってくれない。
 文脈から判断すれば、志位氏が問題にしているテロリズムはおそらく「反国家テロリズム」の方だろう。だが、反国家テロリズムは、基本的に、全体として弱い立場にある者が、より強大な相手に対して行使する手段である。それは自立的に存在するものではなく、支配権力の側の陰謀である場合を別とすれば、基本的には、国家権力の側の残酷な支配や侵略に対する絶望的な反抗・反撃として行使される。もちろん、反国家テロのなかには、そのような「道徳的根拠」さえまったくなく、閉鎖的な妄想的カルト集団によるテロリズム(オウム真理教事件など)も存在する。そのようなテロリズムは、それこそ単なる犯罪行為であって、快楽のために人を殺すことが許されないのと同様、絶対に許されないし、そういうものとして厳しく取り締まり処罰するべきだろう。だが、そうした妄想的テロは、資本主義の腐朽の現われであるとしても、結局のところ散発的なものでしかない。人類がこの地球上で平和的に生きていくことを主として妨げているのは、国家権力および帝国主義による残酷な支配と侵略の方なのか、それとも、それに対する対抗手段として(根本的に誤って)行使されている反国家テロリズムの方なのか?
 反国家テロリズムによる死者の数と、国家権力および帝国主義による支配と戦争による死者の数を比べるなら、後者の方が前者より数百、数千倍多いことは自明である(1991年から1995年までだけで、戦争で死んだ人々の数は300万人にのぼると言われている)。違うのは、テロリズムがしばしば先進国の豊かな市民を標的にするのに対し、国家権力および帝国主義による支配と侵略の犠牲者の圧倒的多数が、貧しい第三世界の民衆だということである。アメリカの世界貿易センタービルの死者は全世界の新聞テレビで大々的に取り上げられ、全世界から哀悼が捧げられ、赤十字を通じて何億ドルもの大金が遺族に寄せられた。しかし、毎日、飢えと治療可能な簡単な病気で何百、何千という子供たち、貧しい人々が死んでいっていることに、世界のほとんどの人々は無関心である。アフガニスタンに打ち込まれるミサイルに費やされた何百万、何千万ドルのお金があれば、いったい何千、何万人の人々の命が助かることだろうか?
 人類というものが先進国の豊かな市民だけで構成されているのでない以上、「21世紀に人類がこの地球上で平和に生きていくうえで、一つの根本条件というべき」なのは、国家権力と帝国主義の側の支配と侵略を根絶することである。テロリズムは、そうした支配と侵略を結果的には強めるものでしかない根本的に誤った対抗方法であり、われわれは、あくまでも国家権力と帝国主義による残酷な支配と侵略を根絶する課題の一環として、テロの根絶に取り組まなければならない。この基本視点を見失うならば、テロ根絶という美名のもと、他の誰よりも残酷なテロ行為を行使してきた国家権力と帝国主義の側による策動に対する姿勢を著しく弱めることになるだろう。

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