3中総の批判的検討
 ――敗北の教訓は本当に汲みとられたか

2、アメリカによる戦争と国連による戦争

 不破=志位指導部は、今回のテロ事件と報復戦争をめぐって、2度にわたる書簡を各国首脳に宛てて出した。すでに、トピックスで触れたように、まずは労働者・市民に向かってアピールを出すべきであるのに、そうした人民向けアピールはいっさいなく、最初に各国首脳に向けて書簡が出されるということに、まずもって大きな疑問を覚える。昨年の東南アジア歴訪のときもそうであったが、不破氏と志位氏にとっては、各国政府や政府首脳は現実を動かす「現実的」存在であっても、底辺で生き闘う民衆は現実を動かす主体としてはほとんど「不可視」の存在のようだ。しきりに唯物史観を唱えながら、またその国の運命はその国の国民が決定すると吹聴しながら、現実の行動においては、そうした人民を無視して、人民の頭越しに各国首脳に書簡を出すことが、不破=志位指導部にとっての「野党外交」らしい。
 しかし、それよりもずっと重要なのは、第2の書簡において、不破、志位両氏が、アメリカによる報復戦争から国連を中心とした制裁と「裁き」の道への切り替えを要求し、その一環として、経済制裁を安直に主張しているのみならず、軍事制裁さえ公然と容認していることである。志位報告はこの点について次のように述べている。

 私たちの「書簡」で提案しているように、ビンラディンと「アルカイダ」の容疑を公式に確認すること、その身柄引き渡しをタリバンに要求すること、それが拒否された場合には必要な制裁措置をとること、厳正な裁判によって真相の全貌(ぜんぼう)の徹底糾明と処罰をおこなうこと――こうした一つひとつの手段のすべてを、国連が中心に、国連の管理のもとに、国際社会の一致協力した努力によっておこなうべきです。
 犯罪者の身柄を確保するために強制措置が必要になった場合には、国連が主体になって、国連憲章第七章にもとづく制裁措置の発動という手段をとることが必要になります。そのさいには、まず憲章四一条にもとづく経済制裁などの非軍事的手段による解決が、アフガニスタン国民への人道的配慮も十分に払いながら、最大限追求されるべきです。国際紛争の平和的解決という国連憲章の根本精神は、この問題でも最大限に発揮されなければなりません。
 憲章四一条にもとづく手段が十分につくされても、なお問題の解決に不十分だと国際社会が認めたときには、国連憲章は、憲章四二条にもとづく軍事的措置をとることを認めています。軍事的措置は、あらゆる手段がつくされたのちの最後の選択肢として、国連の権限によってのみ許される手段です。今回の場合は、必要になるのは、容疑者の拘束という目的にふさわしい性格のものになるでしょう。
 かりに軍事的手段をとるとしても、国連中心に、必要十分な手続きをつくしてこそ、はじめて国際社会の理解をえられ、国際社会の大同団結が確保され、テロ根絶に有効な手段となりえます。

 ここでの論理は、とにかくテロリズムを根絶するには国際社会の団結が必要である、そのためにはアメリカを中心とする一部の国の単独行動では理解を得られない、国連を中心にして制裁をすれば理解を得られる、したがってたとえ軍事的手段を行使することになっても国際社会の理解を得られるので問題はない、というものである。この論理は、まったくもって単純かつナンセンスである。
 まず第一に、このような論理は、アメリカ主導の報復戦争に対する日本共産党指導部の批判とさえ整合していない。共産党による今回の戦争批判は、手続き上の問題(つまり、国連を無視して、米英が単独で軍事行動を起こしたこと)に対する批判のみならず、その行使する手段そのものに対する批判、すなわち内容的な批判をも含むものであった。たとえば、志位報告は、次のように戦争行為そのものを批判している。

 爆撃によって、アフガニスタンで人道支援活動にたずさわっていた国連非政府組織の事務所が破壊され、民間の職員に死傷者が出るなど、罪のない一般の人々の命が奪われています。軍事攻撃によって、かねてから深刻な飢餓状態にあった難民のなかで犠牲者が広がることが、強く危ぐされています。
 米国は、この攻撃を「軍事施設にたいする限定的攻撃」と説明していますが、ラムズフェルド国防長官は「意図しない犠牲はさけられない」と公然とのべています。軍事攻撃に一定の理解をしめしている諸国も、一般の市民の犠牲者が出ることには、強く反対しています。罪のない市民の生命を奪うことは、けっして容認することのできないものであります。

 これらの批判はすべて、アメリカがやっているから起こっているのではない。一般人の巻き添えは、あらゆる軍事行動につきものの現象であるし、難民の犠牲者に関して言えば、アメリカであれ何であれ、世界で最も貧しく多くの民衆が飢餓線上にある国に対して軍事行動を行なえば必ず生じる現象である。これらの戦争の悲劇は、国連主導であってもやはり起こるものである。志位報告は、この辺の矛盾を取り繕うため、この引用文の直前の部分で次のように奇妙奇天烈な議論を展開している。

 米軍など一部の国の判断と作戦によって軍事力行使がおこなわれているために、軍事攻撃は、報復戦争という様相を色濃くし、きわめて憂慮すべきさまざまな深刻な状況をつくりだしています。

 つまり、民間人が巻き込まれるのも、難民が飢餓に追いやられるのも、アメリカが一国の判断で軍事力行使をしているからだと言うのである。驚くべき詭弁ではないか。だいたい、国連が中心に軍事行動をしたとしても、国連軍という軍隊そのものは存在しないので、結局は、実際に軍隊を持っている大国が軍隊を提供するしかない。その主力は、今回の多国籍軍に見られるようにイギリスか、あるいはアメリカ自身にならざるをえない。どちらも今回の軍事行動の中心国である。アメリカ軍が星条旗の下で爆弾を落とせば民間人の犠牲が出て、難民を飢餓で苦しめることになるが、国連の旗の下で同じことをやれば、突然、爆弾やミサイルの命中精度が上がって、民間人を巻き添えにしないとでも言うのか? 難民が飢餓で苦しまなくなるとでも言うのか?
 また、不破中間発言は、軍事行動そのものの持つ問題性を、志位報告よりもさらに突っ込んで指摘している。

 第一に、このたたかいの相手は、テロ集団です。それをとらえるために、その国にこの集団がいるということで、一つの国民に軍事攻撃をくわえ、戦争の犠牲を負わせる権利は世界のどの国にもありません。罪のない市民の犠牲は戦争が起こされた必然の結果であります。しかも、攻撃の対象になっているアフガニスタンは、ソ連の侵略以来二十年余にわたる侵略および内戦の結果、全国民が飢餓と難民、地雷の被害、水の欠乏などの問題に苦しんでいる国であります。これまで、困難ななかで多くの国際的な支援の活動がおこなわれてきましたが、戦争の開始は、国際機関や非政府組織(NGO)のそういう援助活動さえも中断させ、爆撃による直接の被害にとどまらないで、そのことがすでに巨大な被害をアフガニスタンの国民に及ぼしつつあります。

 以上のような問題は、主体が英米軍であろうと、国連であろうと変わりはない。まさに不破氏が言うように、「その国にこの集団がいるということで、一つの国民に軍事攻撃をくわえ、戦争の犠牲を負わせる権利は世界のどの国にも」ないのである。国連の派遣軍が結局は世界のどこかの国の軍隊で構成される以上、この引用文は100%、国連の軍事行動にもあてはまる。それとも、国連の軍事行動は、軍隊や兵器なしで遂行されるとでも言うのだろうか。不破発言は、国連による軍事行動の容認と、この戦争批判とがどう両立するのかの説明さえしていない。そこで言われているのはただ、次のような無意味な文句だけである。

 相手は凶悪な集団であります。ですから目的を達成するためには、経済制裁を超えた手段が、必要とされることもありえます。しかし、その場合でも、もとめられるのは、国家間の戦争ではなく、いわば、警察行動的な領域の問題であります。

 軍事行動を「警察行動的な領域の問題」と言いかえれば、あたかも問題がすべて氷解するかのごとくである。いったい、その「警察行動的な行動」とは何なのか。タリバーン政権が徹底交戦という立場を打ち出した場合、どのような警察的行動でもって、その領土内にいるビンラディンを差し出させることができるというのか。ぜひとも具体的に教えてほしいものである。
 アメリカが単独で動けば問題だが、国連主導なら問題ないという立場は、自由党の小沢党首の立場と本質的に変らない。小沢はこの立場を日本の憲法にも適用しようとしている。不破氏は日本だけは例外であるという立場をとる。どちらが論理的に首尾一貫しているかは明らかである。
 第二に、国連中心であれ何であれ、この問題での共産党の立場は、テロ問題解決に軍事力の行使は有効である、という立場に立つものである。そして、テロリストをかくまう国との国際紛争の解決に、軍事力行使が有効であるという立場に立つことである。これは、憲法9条の立場を完全に否定するものではないか。共産党指導部は、国連による軍事的制裁を肯定するかぎりは、どうして、なぜ、どのような形で、テロ根絶に軍事力行使が有効なのかを説得力をもって証明すべきだろう。また、テロリストをかくまっているという理由だけで、主権を持った特定の国に軍事力を行使することが、どのように正当化される行為なのかを説明すべきだろう。
 粘り強い交渉と国際的圧力を通じて、容疑者を引き渡させるという平和的問題解決を事実上否定した今回の第2書簡と3中総は、共産党が憲法9条の立場を完全に投げ捨て、憲法9条というものを、もっぱら日本にのみ適用される特殊規定に引き下げることになった。志位報告は、先の引用に続けて次のように述べている。

 なお、憲法九条をもつ日本は、たとえ国連が制裁措置を発動したときでも、それへの参加・協力は非軍事的措置に限定されるべきであって、軍事的措置への参加ができないことは、いうまでもありません。

 つまり、軍事的行動そのものは正しいが、日本は9条があるので参加できないという論理である。こんな立場からどうして、日本による参戦行動を本当に阻止しようとする姿勢が出てくるのか。軍事行動がそんなに正しいもので、それによって本当にテロを根絶できるのなら、日本は9条を改正してそうした「正義の行動」に参加できるようにするべきだということになるではないか。
 また不破発言は、日本は憲法9条を持っているから国連中心の解決を訴えることができると述べている。まったく非論理的な議論である。国際紛争を軍事力で解決しないという立場そのものは、イタリア憲法にも入っている規定であり、国連憲章にも入っている。ドイツの憲法も侵略的戦争を否定している。アメリカが現在やっているのは、そのような水準でさえ否定する暴挙である。そして、不破=志位書簡とこの3中総が、国連中心であれ国際紛争の軍事的解決を容認したかぎりにおいて、憲法9条のみならず、イタリア憲法の水準さえも否定しているのである。
 このような論理のでたらめさは、朝日新聞との不破インタビューではもっと露骨に表現されている。このインタビューに対する詳しい批判は、本号の批判記事を参照してほしい。

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