次に志位報告は、選挙活動そのものについての総括と教訓を何点か論じている。その中では、最初に非拘束名簿式という新制度に対する取り組みについて述べられている。
まず、改悪された比例代表非拘束名簿式という制度のもとでのたたかいについてです。わが党は、この制度のもとで、「比例選挙は、政党そのものを選択する選挙です。日本共産党と書いて投票してください」という訴えを基本とし、候補者名での投票を望む人も歓迎するという方針でたたかいました。
この方針は、今回の選挙の条件――制度改悪後からわずかの期間に選挙がおこなわれ、第一次発表候補者九名のうち現職が三名、新人六名という条件のもとでは、もっとも合理的な方針であり、政党選択を土台に日本共産党そのものをおしだすうえで、効果を発揮したと考えます。この方針のもとでは、党内の順位をどうするかについて、あれこれの手だてをとることができませんが、比例票をのばすためのもっとも効果的方針としてわりきってとりくみました。
つぎの参議院選挙は条件が異なってきます。改選となる比例代表の現職が八名であり、選挙までの一定程度の期間もあります。政党選択を土台にという基本方針をつらぬきつつ、国会活動にとって欠かせない重要な候補者の再選を保障するという見地にたって、方針の見直しと発展を検討するようにしたいと思います。
この総括を見るかぎり、どうやらわが党指導部は、非拘束名簿式という特殊な条件にもかかわらず完全に党名選挙で通したことが失敗であったことを多少認識しているようである。しかしながら、それが誤りであったと公的には認めようとはせず、あくまでも党名選挙一本でやったことを「もっとも合理的な方針」であったと強弁している。その理由として志位報告が挙げているのは、「制度改悪後からわずかの期間に選挙がおこなわれ、第一次発表候補者九名のうち現職が三名、新人六名という条件」だけである。しかし、この条件は公明党もあまり変わらない。しかし公明党は短期間のうちに個人名を徹底的に浸透させ、現有議席をしっかり確保した。3中総の出している条件は言い訳にはならない。新しい選挙制度の特質を完全に無視した党名選挙一本槍の方針が――今回の敗北の基本要因ではないにせよ――、部分的要因としてあることを素直に認めるべきではないだろうか。
次に宣伝活動についての総括を見てみよう。
中央弁士を先頭にして、演説の改善の努力をおこないたいと思います。弁士や候補者は、それぞれ演説に苦労をしてとりくんでいると思います。しかし、党内外から、「日本共産党の弁士は、みんな同じことをいっている」、「いうことがいつも決まっている」という批判があります。これは真剣にうけとめる必要があります。紋切り型、同じ言葉では人の心をうちません。党の政策・方針にしっかりたちながら、一人ひとりの演説は、個性を生かし、実感と体験を重視し、演説の素材や切り口も“その人ならでは”のものをもち、大胆に自由闊達(かったつ)に語ってこそ、聴衆をひきつける魅力をもった演説になります。そのための不断の学習と努力に、意欲的にとりくみたいと思います。
紋切り型の演説や個性のなさに対する批判は、何も今回になってはじめて生じたのではない。ずっと以前から一貫して言われてきたことである。とりわけ、宮本顕治氏が引退し、不破氏の完全支配体制が確立して以来、共産党幹部、候補者の個性のなさはいっそう際立つようになった。誰もが不破氏と同じ言い回し、同じ抑揚、同じ身振り手振りで話すようになった。その筆頭が、他ならぬ志位和夫委員長である。不破議長の物まねをしているような志位委員長の話し方こそ真っ先に改善されるべきだろう。
さらに言えば、この「個性のなさ」は、単に技術や熟練の問題ではなく、共産党そのものの体質に深くかかわっている。個性を押しつぶし、異論を排除し、インターネットでのささやかな異論表明さえ許さず、それを理由に真面目な党員を除籍さえする、そうした党の体質そのものが、党候補者の個性を奪い去り、彼らが自分の言葉で語ることをほとんど不可能にしているのである。ところが、志位報告は、演説の「個性のなさ」を克服するための処方箋として、「不断の学習と努力」を持ち出している。「学習」によって個性ある演説を可能にするというのだ。上から押しつけられる「学習」によって、どうやって個性や自由闊達さを獲得するというのか。官僚の思考はどこまでも、上からの統制や「学習」という水準にとどまる。それが、どのような「成果」を生み出しているかは、彼らが好んで用いる「自由闊達」という用語そのものに現われている。不破氏が「自由闊達」という表現を用いると、誰もが判で捺したように「自由闊達」と言い始めるようになった。このような口写しのどこにも、「自由闊達さ」などないというのに。これこそブラックジョークではないだろうか。こうした言葉の端々に、有権者は、共産党の全体主義的体質を感じるのである。
次に志位氏は、テレビCMが失敗であったことについて、珍しく次のように率直に述べている。
テレビのCMは、成功しませんでした。党内外からの批判の声は、率直にうけとめたいと思います。新しい試みへの挑戦だけに、どんな政治的メッセージを発信し、どういうイメージをアピールするかなどもふくめて、あらゆる角度からの十分な検討と議論が必要であったにもかかわらず、この点での党としてのとりくみに安易さがありました。とりくみを反省し、研究・検討をはかりたいと思います。
反省は大いにけっこうである。だが、「党としてのとりくみに安易さがあった」というのは、責任の所在を曖昧にする言い方ではないのか? 「党」ではなく、「われわれ党指導部」ないし「常任幹部会」と言うべきだろう。CMの内容決定を党全体でやったのならまだしも、あるいは、党大会での議題にしたのならまだしも、その内容はすべてトップで全面的に決定された。党員は、そのCMの内容を、実際にテレビで流されてはじめて知った。CMの内容に問題があるとすれば、その責任は挙げて指導部にある。それとも、志位氏はやはり、「指導部」=「党」だという認識を持っているということだろうか?
しかし問題はそれだけにとどまらない。この総括では、「安易だった」とは言われているが、あのテレビCMのどこが問題であったのかについて何も述べられていない。真ん中に志位氏が立ち、それを囲む「民衆」が志位氏を仰ぐようにして見つめ、志位氏のベルト締めパフォーマンスに、「下々のもの」が拍手をするというこの恐るべき内容に、指導部が何の問題も感じなかったということ自体、本当に深刻な問題なのだということを、志位氏は気づいているのだろうか。
この問題も、先に述べた、候補者の個性のなさ、紋切り型の演説という問題と通底している。ああいうコマーシャルが党の指導部内ですんなり通り、実際に放映されたという事実に、現在の党指導部の救いのなさがこの上なくはっきりと示されているのではないだろうか。
志位氏は次に、支持拡大の問題についても教訓を述べている。
かつては、対話・支持拡大では、結びつきを生かしたものが中心で、それを意識化、日常化するために、「支持者台帳」の整備や「結びつきカード」の活用をはかるなど、さまざまな努力もすすめられてきました。ところが現在のとりくみをみると、電話帳など各種名簿にもとづく電話を中心とする対話・支持拡大のとりくみが中心というところがほとんどで、一人ひとりの結びつきを生かしたとりくみが弱まっているという問題があります。
人と人との結びつきを生かした対話は、対話活動全体の“骨組み”になる重要性をもつものです。電話などをつかった大規模なとりくみはもちろん重要です。しかし、それが活動の中心になってしまい、対話の“骨組み”になる結びつきを生かしたとりくみが弱まるという傾向が生まれていることは重大です。これは、一人ひとりの同志が、党の路線と方針に誇りをもって語るうえでの学習の援助の弱まりともむすびついたものだと思います。この弱点を直視し、大胆に改善していきたいと思います。
今回の選挙においてはたしかに、個々の党員が、自分の結びつきを生かして支持拡大するという側面が弱かった。選挙運動にあまり危機感がなく、その支持拡大もかなりおざなりで、通り一編になっていた。これは主として、党自身の空洞化、高齢化、戦闘性の大幅な後退などなどの構造的原因によっている。そして、党指導部自身が、個々の党員に、「党の路線と方針に誇りを」植えつける上での無能力ともかかわっている。それは単に、「学習の援助の弱まり」という水準のものではない。
志位報告は、最後に、選挙区選出議員の再選問題について触れ、「激戦をかちぬくためには、早くから、候補者を中心として、機関と一体となった系統的な活動がもとめられました。六年間の現職議員の実績を党内外に広く知らせる活動ももっと必要でした。この点で、中央もふくめて再選をめざす活動の保障、とりくみが十分だったとはいえません」という反省の弁を口にしている。
以上が志位報告による主要な教訓と反省点である。いずれも、指導部としての本質的な問題に触れた反省は一つもない。歴史的な大敗北を喫したあとの最初の中央委員会総会であるというのに、この程度の部分的反省にとどまっているのは、本当に信じがたい。もちろん、路線の転換や人事の刷新についても何も言われていない。2000年総選挙、2001年参院選と連続して大敗北を喫し、事実上、躍進前の水準にまで落ちたというのに、この間の路線問題や指導部そのものの進退について何も、一言も語らずにすませるということは、まさに党員と有権者を愚弄することである。われわれは改めて、不破=志位指導部の退陣を要求する。これほどまでの歴史的敗北を喫しながら本質的な反省を何一つできない指導部に、指導部を名乗る資格はない。