朝日記者との不破インタビューを評す

2、資本主義的グローバリズムについての無理解

 次は、現在の世界経済を特徴づける資本主義的グローバリゼーションについてである。不破氏は次のように語っている。

 「グローバリゼーション(世界化・国際化)」という言葉の一番の発信元は、アメリカなんです。ところが、アメリカは、自分の気に入らない国際課題については、“わが国の死活の利益が優先する”という立場で、平気で背を向ける態度をとっています。地球環境の問題で京都議定書に反対したり、核兵器廃絶を拒否したりするのは、この立場のもっとも鮮明な現れでしょう。私たちは、アメリカ流「グローバリゼーション」のこうしたごまかしには乗りません。

 とりあえず、不破氏の皮相なグローバリゼーションの理解はさておき、彼の言いたいことは、アメリカの国際政治における横暴(アメリカ流「グローバリゼーション」?!)こそが問題なのだということである。それは続きを読めば、いっそうはっきりする。

 昨年十一月の私たちの党大会のさいに、ヨーロッパのいくつかの共産党の代表たちと意見を交換しましたが、そのとき、「世界化(グローバリゼーション)」への対応でかなり大きな立場の違いがあることに気づきました。ヨーロッパの共産党は、フランスもイタリアも、「グローバリゼーション反対」という方針でした。私たちは、そういう立場はとっていません。「世界化(グローバリゼーション)」、つまり資本主義がいよいよ世界的になるということは、マルクスが声を大にしてその意義を強調した資本主義の発展の基本方向ですから。(笑い)

 不破氏はまず、この問題についての彼の立場が、資本主義的グローバリズムに反対しているヨーロッパの共産主義政党とは異なっていることを認めている。その上で、自分の方がマルクスの立場に近いと自慢して笑っている!!
 どうやら不破氏は「資本主義がいよいよ世界的になる」ことと現在の資本主義的グローバリゼーションが同じものだと考えているらしい。彼の頭の中では、世界経済は、マルクスの『資本論』の時代で止まっているかのようである。
 現実には、資本主義はとっくに世界的になってしまっている。資本主義的グローバリゼーションとは、資本主義が世界的になるということを指しているのではなく、資本が世界的に自由に移動することを指しているのである。世界的に自由に移動することのできる資本とは、世界のどの国にも平等に存在するのではなく、主として多国籍資本としてアメリカ帝国主義や日本やEUといった大国に偏在していることは言うまでもないことだ。
 つまり、現在の資本主義世界を前提とする限り、グローバリゼーションとは大国の資本が利潤を求めて「世界化」することに他ならないのである。
 続いて不破氏は、従来からの共産党の立場を説明する。

 では、日本共産党はこの問題をどう扱っているかというと、経済面でも大国中心の国際秩序ではなく、どんな大国の経済的な横暴も覇権も認めない国際秩序をめざして、国際的にも経済秩序の民主的な改革を要求するという立場です。

 この立場を敷衍(ふえん)するならば、グローバリゼーションには反対だということになるはずである。しかし不破氏が、大国の多国籍資本を問題にするのでなく、アメリカ流「グローバリゼーション」だけが問題なのだと言うのであれば、不破氏の立場は、間違いなくヨーロッパの共産党よりも自民党の亀井氏などのリベラルに近いことになるだろう。
 続きを読むと、やはり、そのように受け取れるのである。

 アメリカ中心の国際化の危険性は、アジア諸国がとくにこの数年来の経験を通じて、非常に強く感じていることです。
 四年前に金融危機、経済危機がアジアを襲いましたが、その背景には、国際的な金融投機集団の経済秩序を破壊する策動がありました。この時、アメリカが各国に押しつけようとした処方せんは、IMF(国際通貨基金)の指揮のもとでの経済再建でした。日本は、この面でも、アメリカの「同盟国」ぶりを発揮して、インドネシアが経済危機に落ち込んだ時には、橋本首相がわざわざインドネシアに出向いて、「IMFの処方せん」を受け入れるよう勧告することまでしました。しかし、このIMF路線は完全に失敗しました。
 一方、マレーシアは、「IMFの処方せん」をいったんはもらったものの、それをはねかえして、自主的な再建路線に踏み出し、みごとに危機からの脱出に成功しました。私がマレーシアを訪問したのはその直後でしたから、経済関係の幹部たちも非常に意気軒高で、自主独立が重要だということで、大いに意気投合したものです。
 そういう点では、「グローバリゼーション(世界化・国際化)」といっても、アメリカ主導でいわばアメリカ・ヨーロッパのタイプに全世界をはめこもうという「世界化」は、現実の世界のなかで、多くの面で落第点がつけられています。
 やはり、世界では、それぞれの国がそれぞれの社会の内的な論理をもって発展してきているのです。国際社会では、その自主性を大いに発揮しながら共同しあうというあり方がもとめられています。しかも、かつてのように、資本主義が高度に発展している大国だけが世界を動かすのではなく、経済的にはさまざまな発展段階にあっても、世界の諸大陸の多くの国ぐにがそれぞれなりの力をもって世界の政治と経済にくわわっているのが、今日の国際社会です。国際社会のこうした特徴は、二十一世紀には、より大きな意味をもってくるでしょう。
 そこまで見通して世界化の問題を考えずに、ワシントンやニューヨークの立場からだけで世界を見、そのせまい立場から「世界化」「国際化」を見ていると、世界の前途を見誤ると思います。

 このように不破氏が問題にしているのは、やはり国際政治の舞台におけるアメリカ主導の「グローバリゼーション」であって、日本を含む大国由来の多国籍資本の行動としてのそれではない。しかも不破氏は、ここでマレーシアの例を挙げて、アメリカ主導でない「グローバリゼーション」がありうることを示したつもりになっている。
 不破氏が例にあげているマレーシアの「自主的な再建路線」の「成功」は、「IMFの処方せん」をはねかえしたという政治的側面よりも、むしろ短期資本の取引の規制に踏みきったその経済政策に意義がある。また、その「成功」は、マレーシアの政治・経済における「安定」をもたらしているマハティール政権の開発独裁としての性格、日本の多国籍企業との緊密な結びつきを抜きにしてはありえないものである。
 さらにそれ以前の問題として、マレーシアなどの東南アジア諸国の経済は、「それぞれの国がそれぞれの社会の内的な論理をもって発展してきている」例としてはまったく不適切である。なぜなら、この地域は1985年のプラザ合意以降、日本の多国籍資本の主要な直接投資の対象となったという特殊性があるからだ。
 アセアン諸国では94年には日本の子会社が推定80万人を雇用し、自動車市場では日本の企業が90%支配するに至っている(「東南アジア経済の興亡」ウォールデン・ペロー参照、『グローバル経済が世界を破壊する』ジェリー・マンダー/エドワード・ゴールドスミス編、朝日新聞社に収録)。そして、4年前の金融危機、経済危機は、この地域の過度の外資依存と、積極的な外資導入によって作られた輸出依存型経済の脆弱性を誰の目にも明らかにしたのである。視点を変えれて言いかえれば、利潤を求めて自由に移動する多国籍資本が、アセアン諸国の経済に危機をもたらしたと言えるのである。
 その金融・経済危機をして、「国際的な金融投機集団」が「経済秩序を破壊」したとしか評価できない者は、マハティールの立場からだけでこの地域を見ているのである。「世界の前途を見誤る」のは不破氏自身であろう。

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