四つ目は、軍事力に関する不破氏の見方についてである。
まず、10月11日に発表された不破・志位連名の第二の書簡が、国連憲章四二条の軍事的措置まで認めることを書いているのはなぜかというインタビュアーの質問に対して、彼は次のように答えている。
私たちはもともと、国連の制裁という場合、国連憲章第四一条(非軍事的な制裁の条項)とあわせて、第四二条(軍事的な制裁の条項)があることをいつも視野に入れています。湾岸戦争のときにも、私たちはそのことを視野に入れて行動しました。しかし、国連としては、まず経済制裁など、非軍事の手段をとる段階が非常に重大な意味をもつのです。
確かに、不破氏は湾岸戦争のときも国連の軍事制裁を視野に入れていたであろう。だが、「視野に入れ」ることと軍事制裁が「ありうる」と認めることとは次元が異なる。この書簡によって、不破氏は、日本国内における自衛隊「活用」論に続き、世界においても軍事的解決の有効性を認めたわけである(この書簡については、S・T編集部員がトピックスでも、また今号の『さざ波通信』の3中総批判の中でも述べているので参照してほしい)。
しかし、彼が認める軍事制裁は、アメリカが単独でやるような戦争とはそもそも違うと力説している。
アメリカでいまやっている軍事報復と、国連の制裁とは、軍事行動という共通面をもってはいても、一方は一国の判断と利害で勝手にやる戦争であり、他方は国際社会が道理をつくして犯罪勢力を追いつめる警察行動的な性格の強制措置ですから、そのあいだには根本的な違いがあります。相手が一定の理性をもっていれば、かつてのリビアのように、アメリカからは「ならず者国家」と指定された国だけれども、非軍事の制裁の段階で、爆破事件の容疑者の引き渡しという対応をする場合もありえます。
…軍事的制裁ではありますが、内容からいえばこれは警察行動の性格をもつもので、しかも、イスラム世界をふくめた国際的合意のもとにおこなわれるものです。こんどのように、一部の国の判断で、これが「制裁」だとして、国家間の戦争の方法を勝手にもちこむということとは、まったく違います。
このように不破氏は、国連の軍事制裁が「警察行動の性格をもつ」から「まったく」違うと言う。「警察行動」というものが仮に公正で中立の行動であるという意味だとしても、そもそも「警察行動の性格をもつ」不偏不党の公正な国連軍など存在しない。「国連軍」を展開することになった場合に、それを指揮するのは、ほかでもない現在アフガニスタンに軍事展開している米・英、そしてタリバンの対立勢力である北部同盟を支援しているロシアなどの安保理常任理事国5カ国(残りは、仏・中)である。「まったく」違うでなくて「少し違う」くらいにしか言えないのである。
不破氏は、ここまで言い訳したあと、やっと質問に答えを与えている。
こんどの場合は、タリバンから交渉の提案があっても、アメリカ側が全部断って、いわば最後通告をつきつける形で開始した戦争です。この戦争をやめて、国連が国際法にもとづく告発や制裁の行動をとる道にきりかえたとき、相手側がどういう態度をとるかということは、やってみなければ分かりません。しかし、すでに戦争がはじまって、事態がこういった状況に現になってきているときでしたから、十月十一日の第二の書簡では、憲章第四二条の軍事的制裁の条項にも触れました。先のことまで具体的に視野に入れて発言しないと、状況にあった説得力をもたないと考えたからです。
すでに戦争がはじまったから、軍事制裁の条項にも触れたのだとし、そうしないと「説得力をもたないと考えたから」だと言う。「国連軍」による戦争も容認しながら、アメリカに戦争をやめろと言うのは、まったく「説得力」がないと言わなければならない。
このような主張が、どうして憲法9条を守る運動、自衛隊の海外派兵を許さないという運動と両立できるのだろうか? インタビュアーの早野氏もその点についてどう考えるのかつっこんで質問している。興味深いやり取りなので、インタビュアーの発言も含めて引用する。
早野 国連はぎりぎりの場合、軍事的措置の行動をおこすべきだという書簡の論理でいきますと、日本はその場合、憲法第九条があるから、小泉首相ではないけれども武力行使はできない。しかし、後方支援ぐらいはしなければいけないということになりませんか?
不破 憲法のもとでは、軍事と非軍事の区別はどんな場合でもきっちりさせないとだめです。
早野 そうすると、日本が国連の軍事的措置もふくめてやるべしやるべしといいながら、しかし私たちは憲法第九条があって軍事的措置にはいっさい参加しませんというのは、劣等感ではないけれど、なにかこそばゆいような気がしないでもないのですが、自信はもてますか?
不破 それは日本の姿勢だと思います。だいたい日本が国連に入るときに、憲法第九条をもった国として国連に入ることが大前提でしたから。それだけ、外交の面とほかの活動の面で、国際貢献を大いにすべきなのです。とくにこんどの問題では、国際社会が二十一世紀の新しい問題にたいして新しい対応を探究することが問題になっているのですから、憲法第九条をもった日本は、世界平和の立場で国際貢献をする一番いいポジションにあります。
アフガニスタン問題では、すべてが解決したあとの「平和」の問題、政権のあり方の問題もありますが、そういう先の先のことではなく、現実にいま取り組むべき緊急の課題が、難民救援をはじめ無数にあります。憲法第九条をもった国だからこそ世界のなかでいちばん役割をはたせるはずなのに、そういう問題にたいして、いままで日本政府はろくに仕事をしていないでしょう。民間ではいろいろな方がボランティアでずいぶんやっています。そういう活動を世界の先頭にたっておこなって、「憲法第九条をもっている日本は、そういう面ですごい活動をするんだな」と思われることをこそ、めざすべきなのです。
戦争を放棄した憲法のもとで、憲法をごまかしごまかしして自衛隊を出動させても、だいたい「武力行使をしない」建前のものが、軍事活動の役にたちますか。同じ戦線を組んでも、かえって邪魔になるだけでしょう。
このように不破氏は、自衛隊は武力行使できないから役立たない、かえって邪魔になる、というとんでもない本末転倒の批判をしている。これではまるで、自衛隊が軍事行動に役に立てるように武力行使できた方がいいと言わんばかりではないか。このようなセリフが、こともあろうに、共産党の最高指導者の口から発せられるとは、怒りを通り越してあきれるほかない。
もし本当に、自衛隊は武力行使できないから役立たないのなら、いったい周辺事態法に対するかつての批判はいったいどうなるのか。あれは、軍事行動の役に立たず邪魔をするだけの自衛隊を派遣する法律だというつもりなのか。だが実際には、自衛隊は、武力行使をしなくても、戦争において最も重要な任務の一つである兵站=後方支援を担うことによって、十分に、軍事行動の役に立てるのである。
この間、自衛隊の参戦に反対するわが党議員団の論戦や『しんぶん赤旗』の主張は、いかに後方支援というものが、戦闘行動と一体であって、それを助けるものであるかを論じてきた。戦争とは直接の戦闘行為だけで成り立っているものではなく、とりわけ大規模な戦争や長期にわたる戦争ともなれば、兵站の役割がきわめて大きなものになるからだ。たとえばベトナム戦争において、アメリカは50万人もの兵士を派遣したが、そのうち実際に戦闘行動に参加したのは、1割にも満たなかったと言われている。つまり、戦争における人的資金的負担は、そのほとんどが兵站によるものなのである。それゆえに、その兵站部分を日本の自衛隊が担うなら、アメリカにとっては、非常に有用なことなのである。
このように、武力行使できない自衛隊がいても「邪魔になるだけ」などという「批判」は、自衛隊の参戦行為に対する批判にはまったくなりえず、それどころか、これまで赤旗や党議員団が行なってきた批判をまったく否定し、自衛隊参戦に反対する運動を愚弄するものである。
インタビュアーも、この逆立ちした「批判」について、さらに突っ込んで質問している。
早野 その点、政府・自民党からすれば、“だからこそちゃんとすべきだ”“もう少しきちっとした協力ができるように武器・弾薬も輸送すべきだ”という議論になってしまうわけですが?
不破 そういう議論をする人はいるでしょうが、これは、つきつめれば、戦争にもっと本格的に参加できるように、憲法第九条を捨ててしまおうという議論にゆきつくものです。ですから、問題の根本は、日本国民がなにを選択するかということです。憲法を変えるか変えないかというのは、日本国民の選択の問題ですから。
こうして不破氏は、自衛隊の海外派兵をめざす与党や改憲派の主張には反論できずに「そういう議論をする人はいるでしょう」としか言えなくなり、「国民の選択」に助けを求め、論争から逃げるのである!
読者のみなさんは、お気づきだろうか? この不破氏の主張が、98年2月に指導部が「日の丸・君が代」法制化論を打ちだしたあとのインタビューと似ていることを。
当時の不破氏は、「日の丸・君が代」が法制化されるならそれを認めることもやぶさかではないと述べて、その法制化に手を貸した。そして、ここでも、世論が9条を変えることを認めるならわれわれ共産党も日本の参戦を認めるのにやぶさかではない、ということをほとんど言いかけているのである! 不破氏は、憲法9条の問題を「日の丸・君が代」問題の二の舞いにさせるつもりか? それとも、彼はその「先見の明」でもって改憲後の「よりまし」参戦について考えてでもいるのか?