その理由を明らかにするためには、まずもってリベラリズムの本質について簡単にでも理解しておく必要がある。リベラリズムは基本的に、資本主義社会の支配的イデオロギーである。商品生産社会が前提する自立した自由な諸個人を方法的出発点とし、資本主義社会の特徴である市民社会と国家との相対的分離に足場を求め、直接的に強制ではない市民社会の支配・従属の権力関係を正当化し、国家による不当な規制や抑圧をできるだけ排除しようとする(「国家からの自由」)。このイデオロギーの主な担い手は、国家による直接的な保護がなくても十分にやっていける自信のある「富と教養」をもった階層、すなわち市民社会の中の中上層階層、とりわけ、その中の男性、白人(アメリカの場合)であった。
リベラリズムが認識する悪しき権力は、国家権力だけである。だが、リベラリズムはアナーキズムとちがって、近代国家を自らの存立基盤を守るための「必要悪」として承認する。リベラリズムにとって近代国家は、第1に、外敵から自国の国民国家を軍事的・経済的・政治的に守るために必要であり、第2に、市民社会の基本的な権力関係(資本主義的生産関係やジェンダー的支配関係)を維持するために必要である。だが、この2つの必要性を逸脱した国家の拡張は、リベラリズムにとって危険なものと映る。とりわけ、国家が市民社会の私的領域に介入しようとするとき、リベラリズムはヒステリーにも似た拒否反応を示す。
それゆえ、リベラリズムが敵対するイデオロギーは、何よりもファシズムと共産主義である。なぜなら、前者は、自律した私的領域を否定し、あらゆる自由を抑圧し、社会全体を全体主義の網でがんじがらめにするからである。後者もまた、私的領域に乱暴に踏み込み、資本主義的生産関係を覆そうとするからである。そして言うまでもなく、リベラリズムは、ファシズムか共産主義かという究極の選択を迫られた場合、つねにファシズムを選択してきた。なぜなら、ファシズムは全体主義的であるが、それにもかかわらず、外敵からの国民国家の防衛と、資本主義的生産関係の維持という近代ブルジョア国家の根本任務を堅実に果たすからである。
このリベラリズムは、20世紀初頭に、社会リベラリズムという形で重大な変化を遂げた。それは、自立した自由な諸個人という方法的出発点を維持しつつも、市場と競争による不平等な社会的結果を認識し、それらを是正するための積極的な社会・経済政策の必要を認めたからである。国家の役割は拡張され、経済的・政治的不平等を緩和するという限定的な範囲で国家が時には私的領域に介入することが認められた。また、60年代から70年代初頭までの運動高揚期の中で、人種や民族にもとづく差別や人権侵害を積極的に国家の力で是正することも認められた(「国家を通じた自由」)。さらにまた社会リベラリズムは、ブルジョア軍隊による祖国防衛を引き続き承認しつつも、あからさまな帝国主義的侵略や介入には否定的な態度をとった。なぜならそれは、国家権力の不当な行使に見えたからである。
だが、1980年代以降、欧米では、主として保守主義的政治勢力のあいだから、ネオ・リベラリズム(新自由主義)と呼ばれる新しい潮流が生じた。これは、20世紀型の社会リベラリズムに対する反動であり、経済的・社会的不平等を是正するためにであっても国家が市民社会に介入することに反対し、とりわけ企業の経済活動に対する国家からの規制や介入に猛烈に敵対した。それは、自立した自由な諸個人というリベラリズムの方法的出発点を改めて強固に信奉し、結果的不平等や差別を個人の努力不足や個人的欠陥の問題に還元した。また、人種や民族や性別による差別を是正するための政府の積極的措置に反対し、レイプやドメスティック・バイオレンスなどの「女性に対する暴力」を規制するための公権力の介入にも強く反対した。同時にそれは、内部に対しては「小さな政府」をめざしながらも、外部に対しては「強い国家」を擁護し、能動的な帝国主義政策に積極的に賛意を示した。それはもはや、社会的弱者や貧困者に対する寛容の精神を無くした中上層階層の政治的憤りの表現であった。
だが、社会リベラリズムとネオ・リベラリズムとは、相互にいかに深く対立しあおうとも、ともに19世紀の古典的リベラリズムの末裔である。彼らの対立は、問題が、ブルジョア祖国の防衛と、資本主義的生産関係およびジェンダー支配関係の存立に関わるとき、雲散霧消する。彼らは、祖国の危機、資本主義の危機、そして男性支配の危機が問題になるとき、たちまち手をつなぎ、一致団結して、共通の敵に対処する。