日本は、その歴史発展の特殊性ゆえに、リベラリズムの自立した潮流が脆弱なままでありつづけた珍しい国の一つである。戦前においては、日本は、帝国主義列強に包囲された状況のもとで、古い封建制社会から急速に帝国主義的資本主義へと転化させる必要性から、中央集権的国家を肥大化させて市民社会の発展を上から暴力的に押さえつけるとともに、社会の富を容赦なく奪いとって、それを軍事力と行政権力に振り向けた。戦前の日本では国内市場の発達は貧困で、リベラリズムの担い手であるべき「富と教養」をもった階層は脆弱なままであった。彼らは、天皇制ファシズムの成長に抵抗する力をもたず、欧米帝国主義の暴力と抑圧に対する民族主義的反発をばねに、天皇制政府への協力へとなだれ込んでいった。日本のリベラリズムは「共和制」や「市民的自由」の旗さえ掲げることができず、それらの旗は、社会主義者、あるいはコミンテルン創設後は、共産主義者に奪われた。
第2次大戦における日本の完敗と、アメリカ占領軍による戦後改革は、リベラリズムの発展を阻害していたさまざまな政治的・経済的障壁を取り除く上で決定的な役割を果たした。本来なら、戦後において、リベラリズムが自立した政治勢力として独自の発展を遂げるべきところであった。しかし、戦後の政治的ダイナミクスはそうした発展を許さなかった。まず、戦前の天皇制ファシズムと侵略戦争に対し強烈な批判意識をもつに至った知識人層や準知識人層(学生など)は、リベラリズムを飛び越えて、共産主義に飛びついた。なぜなら、日本共産党は、戦前、戦中、唯一、天皇制の打倒と侵略戦争の反対を主張し続けた政治勢力だったからであり、また、ドイツ・ファシズムを打ち負かしたソ連社会主義の権威、日本軍と不屈に戦い中国全土を解放した中国共産党の権威が、屈服の歴史しか持たない貧弱な日本のリベラリズムの権威よりも無限に大きかったからである。また、戦後改革でも「富と教養」を失わなかった伝統的中上層階層は、共産主義に対する激しい敵意から、その政治的支えを伝統的な保守主義に求めた。この保守主義は、戦後改革に一定適応しながらも、戦前とのつながりを強く保持していた。あるいはまた、戦後改革の中で新たに台頭してきた中上層階層は、アメリカ仕込みの冷戦型反共主義に飛びついた。
こうして、戦後の日本もまた、独自の政治勢力としてのリベラリズムの発展を許さなかったのである。それはかろうじて、一部の知識人層やリベラル派のマスメディアにおける思想的リベラリズムの水準にとどまった。あるいはせいぜい、無党派市民主義という形で、運動高揚期に部分的な大衆運動をつくるのが関の山であった。それは、独自の政権をつくるどころか、独自の政党さえつくることはできなかった。
だが、歴史というものは常にそのバランスシートを均衡させる。リベラリズムは、独自勢力として失った資産を、別の政治的勢力の形で獲得した。戦後民主主義運動がそれである。
戦後民主主義運動の主たる担い手になったのは、共産党と社会党、およびその周囲に結集する労働運動と市民運動である。こうした担い手からすれば、この戦後民主主義運動は社会主義的なもの、あるいは社会民主主義的なものになってもよさそうなものであるが、しかし、実際にはそうはならなかった。社会主義的ないし社会民主主義的性格は、つねに戦後民主主義運動の副次的要素にとどまった。戦後民主主義運動は何よりも、保守政権に対するリベラルな対抗勢力として存在した。日本の保守政権は、その担い手の点でも、あるいはその本音レベルでの思想の点でも、戦前との連続性を色濃く残していた。アメリカ占領軍によるラディカルな戦後改革にもかかわらず、アメリカの占領担当者たちは、人脈の点で戦前からの保守反動政治家を利用することに躊躇しなかった。なぜなら、彼らこそ、共産主義に対抗する上で最もたよりになる人々だったからである。それゆえ、戦後日本の保守政権は、一方では、戦後における資本主義の新しい発展水準に適合したリベラル・デモクラシーの秩序を構築しながらも、絶えず、統制主義的で国家主義的な抑圧の顔を見せつづけた。そのため、戦後民主主義運動の一貫した課題は、絶えず見え隠れする保守政権の「鎧」に強く反応し、軍国主義やファシズムの復活に全力で警鐘を鳴らすことであった。こうした対抗関係ゆえに、戦後民主主義運動の価値観の中では、欧米における社会リベラリズムに見られるような「国家を通じた自由」という発想は退けられ、常に「国家からの自由」が中心的課題となった。
もちろん、戦後民主主義の主たる担い手であった共産党も社会党も、その綱領で社会主義革命や、生産手段の国有化などをうたっていたのだから、その未来像においてはある種の「国家を通じた自由」も想定されていたし、当面する政策においても国家や自治体による社会福祉の充実という要求はその重要な一側面であった。だが、保守政権に対する政治的対抗軸としては、あくまでも「国家からの自由」が中心であり続けた。そのため、一方では、福祉国家の体系的整備が思想的にも実践的にも遅れるとともに、他方では、法律による差別規制や人権の包括的な法的・制度的保障という分野でも著しい思想的・実践的立ち遅れが見られたのである。
戦後民主主義運動のもう一つの重要な特徴は、その独特の平和主義にあった。それは、戦後日本の憲法が、武装と戦争の完全放棄をうたった憲法9条をもっていたという特殊事情によっている。日本共産党は当初、この条項を日本の自衛権を否定するものだとして反対したが、後に受け入れ、現行の保守政権の軍備拡張政策や対米従属の軍事戦略に対する闘争の手段として用いるようになった(共産党の自衛政策に関する変遷は、過去の『さざ波通信』を参照)。他方、社会党は、憲法9条を、保守党政権に対する単なる闘争手段としてだけでなく、将来にわたって護持すべきものとしてとらえ、「非武装中立」をうたった。この憲法9条の非武装平和主義は、戦前とのつながりを断っていない保守政権に対する強力な制約要因となった。それゆえ、戦後民主主義はこの独特の平和主義を基本的な柱としてきたのである。軍隊による祖国防衛という既成の枠を拒否する憲法前文および9条は、リベラリズムの限界を明らかに越えていた。戦後民主主義運動が、単なる左翼リベラリズムの水準にとどまらなかった重要な理由の一つは、この非武装平和主義の理念による。
まとめると、戦後民主主義運動は、社会主義・共産主義勢力、労働運動を主要な担い手としつつも、その政治的理念としては、一方では、「国家からの自由」を基礎に、社会リベラリズムよりも古典的リベラリズムに近い立場をとるとともに、他方では、憲法9条擁護の運動を通じて、リベラリズムそのものの限界を越えた運動の質をも持っていたのである。