戦後民主主義運動の中で分裂が生じたからといって、その内部のリベラリズム的傾向が一掃されたわけではない。ただ、極端なネオ・リベラル派が脱落したにすぎない。戦後民主主義運動は今なおリベラリズムの傾向を根強くもっている(その典型的な代表者は『週刊金曜日』である。彼らは一方で自由主義的立場から保守政権の政治政策を批判し、他方で、新自由主義的立場から保守政権の経済政策を批判している)。
だが、リベラリズムの枠内にとどまるかぎり、有事立法に本当の意味で反対することはできない。戦後民主主義運動の伝統的な反対論は、日本がアメリカの戦争に巻き込まれるので危険という「巻き込まれ論的平和主義」と、国民の権利や自由が剥奪される、あるいは、首相の独裁体制のようなものができるという「おどろおどろしい全体主義や軍国主義の脅威に対するリベラルな反対論」である。だがどちらもあまり説得力はない。
ソ連のような強大な軍事大国がアメリカと対立していた冷戦時代には、「巻き込まれ論的平和主義」は一定の説得力をもった。しかし、現在生じているのは、帝国主義的グローバリズムの席巻のもとで生じる地域的、部分的反乱や紛争に対するアメリカをはじめとする帝国主義同盟軍による軍事的鎮圧である。それは、ゾウがアリを踏みつぶすような行為であり、戦争というよりも一方的殺戮に近い。昨年、日本は9・11テロに乗じて自衛隊の戦時派遣を強行したが、日本本土が武力攻撃の対象となる危険性はまったくなかった。周辺事態法の場合と同じく、心配するべきは、日本本土が戦争に巻き込まれることではなく、米軍が日本の協力を得ることで、アメリカがより容易に戦争を開始し、貧しい弱小国を戦争に巻き込むことである。
また、あたかも有事立法で、国民の権利と自由が全面的に蹂躙され、ファシズム独裁のような首相独裁が実現すると考えるのも、事態を極端に単純化するものである。現在問題になっているのは、ジョージ・オーウェル的な『1984年』の世界でもなければ、戦前の日本のような全体主義や軍国主義復活の脅威でもない。現代の帝国主義は、リベラル・デモクラシーを必須要件としている。パレスチナで最悪の侵略と虐殺を行なっているイスラエルは、多党制にもとづく民主共和制の国である。アフガニスタンに雨あられと爆弾を降り注いだアメリカも民主共和制の国であり、市民運動が日本と比較にならないほど活発な国である。もちろん、世界的にリベラル・デモクラシーはその統合能力を縮小させ、あからさまな階層政治へと進んでいる。もはや万人の豊かな生活と安全を約束しない。それは、ますます先鋭化する階層分化に立脚し、その中上層に依拠する。下層の反乱や不満は力で押さえつけられるが、全体主義や軍国主義のおどろおどろしい体制が成立するわけでもない。むしろ、その新自由主義政策は、国民全体を監視したり抑圧したりするような不効率な全体主義的統治体制と鋭く矛盾する。治安や管理や統制は効率化され、肝要な部分のみをしっかり押さえることで、その目的を達成しようとする。ジョージ・オーウェルの懸念は、ファシズムとスターリニズムが支配的であった時にこそ説得力を持ったし、アクチュアリティを持っていた。今では、オーウェルの描いた未来像と現代社会の未来像とを重ね合わせることは、著しく現実を見誤ることである。
リベラル派はすでにこのことに気づいている。だからこそ、彼らは有事立法に賛成なのだ。行きすぎた統制や管理には反対だが(といっても、口先だけの反対であり、真剣に抵抗する意思など毛頭ない)、共通の帝国主義的利益を守るためには、一定の権利制限もやむなしと考えている。
われわれはそろそろリベラリズムの限界を踏み越えなければならない。リベラリズムの幻想にもとづいた運動構築は、一時的に成功をおさめることができても、長期的には先細りするだけであろう。もちろん、このことは、リベラリズムのあれこれの価値観をすべてさっさと投げ捨てるべきだということではない。そうではない。リベラリズムは資本主義社会の支配的思想であり、われわれが資本主義の基盤にとどまり続けるかぎり、リベラリズムのあれこれの価値観はなお保持されるだろう。しかし、われわれがたとえあれこれの問題でリベラリズムと同じ立場に立とうとも、それは、リベラリズムの幻想を共有してのことではない。われわれはあくまでもリベラリズムとは別の観点からそうするのである。
現在は長期にわたる過渡期にある。これまで基本的にリベラリズムの論理にのっとって運動を構築してきた戦後民主主義運動は、大きな曲がり角に来ている。すでに古典的なリベラリズムの論理は役立たなくなり、リベラル派は帝国主義的リベラル派へと成長転化しているにもかかわらず、戦後民主主義運動は、それに代わる論理を見出せないでいる。かつての「軍国主義の脅威」論や「全体主義の悪夢」論や「巻き込まれ」論は説得力を失っているが、だからといって、革命的国際主義と社会主義的民主主義の論理が新たな説得力を持ちはじめているわけでもない。ヨーロッパではすでに、帝国主義的グローバリズムに対する対抗運動の中で、「別の世界は可能であり、必要だ」というスローガンのもと、資本主義そのものに対抗する運動が大きな広がりを見せている。先のフランスでの大統領選挙では、反資本主義的左派の候補者が、トータルで10%以上の支持を得た。だが日本ではそのはるか後方にある。
幻想を持たず、絶望せず、一喜一憂せず、この過渡期において未来を準備しなければならない。有事立法に反対する闘争は、この準備の重要な一段階にならなければならない。「『戦争をする普通の国』の仲間入りをするのはごめんだ!」「他の国を戦争に巻き込むのは許せない!」「豊かな国が貧しい国に爆弾を落とす手助けをするのはごめんだ!」「日本をアジアのイスラエルにするな!」、「アジアと日本のために憲法9条を守れ!」――こうした声を全国津々浦々に広げていかなければならない。そして、それと同時に、有事立法に反対する闘争を、新自由主義政策や多国籍企業支配のグローバリゼーションに対する闘争と結びつけて遂行しなければならない。この新自由主義反対の闘争と結びつけてこそ、有事立法反対の闘争は真にその進歩的な意義を持つようになるし、リベラリズムの限界を越える一歩にすることもできるのである。